ふしぎなキリスト教 @ ウィキ

間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)

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fushiginakirisutokyo

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当ページでは、橋爪大三郎大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」容量オーバーになったため、神学篇を分割して作成。

2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。

※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
  • 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。
  • 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。
  • 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
  • p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。

神学

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p16 「ユダヤ教の神は、ヤハウェ。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。」 まず根本的な問題として、イエス・キリストは「真の神・真の人」として神性人性の両方が認められて信仰されている、ということを橋爪氏は本書において一切述べない。橋爪氏がどのようにイエス・キリストを考えようと自由だが、「キリスト教について理解を深める」ことを目的とするのであれば、「キリスト教においてどう信じられているか」を述べるべき。

イエス・キリストは「真の神・真の人」なのだから、「神がイエス・キリストに話しかける」というのは不十分な表現であり(「他の位格が第二位格たるキリストに話しかける」というのなら解るが)、「神でもあるイエス・キリストが語る」も触れなければ、キリスト論につき半分も語っていないことになる。

なお以下はハードルが高い問題ではあるが、キリスト教において「ヤハウェ=第一位格たる父なる神」という見解ばかりでは無い。正教会においてはビザンティン・イコンにおいて、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)の周囲にギリシャ語に転写された"YHWH"が書かれることがあり、イエス・キリストが世々の前から「あった」ロゴス(ことば・神言・かみことば)であったことを西方よりも強調する東方神学の傾向を反映している。

橋爪氏の本を読むことは、「キリスト教を理解出来る」どころか、キリスト教美術に触れた時にさらに混乱の種になるだけだということが示されている。
The Doctrine of the Orthodox Church: The Basic Doctrines
p23 「自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。」 橋爪氏の解釈によれば、「神が造ったものには価値が無い」と信じることが「正しい」ことで「基本の基本」らしい。

もちろんそんな理解は正教会、カトリック、プロテスタント全て含めて、キリスト教には無い。(教派によって小さくない解釈の違いはあるが、それこそ基本的には)「神の似姿として創られた人間」がキリスト教の人間観の基礎を成す。
世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan

3課 キリスト教の人間観(市川大野キリスト教会;日本バプテスト連盟)
p47





p48
大澤「『創世記』には原罪の起源のようなものはないんですか?」橋爪「ないんです。」
大澤「禁断の木の実を食べたという話は『創世記』に入っていますよね。これはじゃあ、必ずしも原罪の観念とは関係がない?」
橋爪「関係ない、です。」

橋爪「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。」
47頁のやりとりは文脈が曖昧であるため、ここで両者がユダヤ教について語っているのかキリスト教について語っているのか、不明であるが、仮にキリスト教についてこのように語っているのであれば、非常に問題であると言えよう。と言うのも、カトリック教会は原罪を「人祖(アダムのこと)の罪。人の世に苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、そして死が入ったもの」とし、プロテスタントでは「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」などと説明されるからである。このように、西方神学で最も一般的な理解では、原罪とは「アダムとイヴから受け継がれた罪」であり、創世記が「原罪の観念と関係が」あることは明らかである。

他方、正教会はアウグスティヌス以降の全的堕落説を否定しており「原罪」という語彙の使用そのものに慎重もしくは否定的であるが、正教会においても「人間そのものが間違った存在」などとは言わない(むしろこうした全的堕落の考え方を否定する)。

いずれの教派でも「人間そのものが間違った存在」などと言わないし、原罪についてこのような定義をすることもない。

橋爪氏がどのような珍奇な原罪理解を持とうと、それを講釈しようと自由であるが、それを「欧米理解に不可欠なキリスト教理解」と銘打つのは、看板に偽りありであろう。
『カトリック教会の教え』p53 カトリック中央協議会 (2003/6/25)

『キリスト教大事典 改訂新版』 p390 - p391 教文館(第4版)

Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) 『キリスト教神学基本用語集』p87 - p88 2010年10月20日 ISBN 9784764240353

教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan
p116 「これはね、人間と神の共同作業になるんです。(中略)共同作業だから、神と人間のあいだに対等なコミュニケーションがあるとも言える。神は圧倒的に偉大で、人間はとても弱いのだけれども、共同作業をしているからには対等でもある」 橋爪氏が自分で言っていることと矛盾する。人間は神に対して発言権がない(p184, p185)、と言いながら、対等なコミュニケーションがあるとする。論理が破綻している。そもそも、神と人間は「対等」ではない。そしてまた、神と人との「共同作業」を認めるなら、カルヴァン的予定説と矛盾する。そこでまた、橋爪氏の論理は破綻する。 論理の破綻
p145
p147
p148
橋爪「奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、復活ですね。」「復活の奇蹟は、イエスが死んでだいぶ経ってから、いまのようなかたちで信じられるようになったと思われます。」「キリスト教の奇蹟は、イエスがキリスト(メシア)であり、神の子であることが核心で、奇蹟はそれを証明するもの。重要だけれど、枝葉に過ぎない。」「奇蹟を信じにくい人は、無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある。」
大澤「考えてみれば奇蹟というのは、本当に信じるべきものの傍証みたいなものですよね。」「奇蹟自体は偶有的な、付録みたいなものということですね。」「奇蹟それ自体を超能力として信じるかどうかは、橋爪さんのおっしゃる通り、二次的なことでしょうね。」
復活は荒唐無稽←そう主張するのは個人の自由

キリスト教において復活は枝葉末節であり付録←誤り

橋爪氏や大澤氏が復活をはじめとする奇蹟を信じようと信じまいと、どう主張しようと自由である。しかし「キリスト教ではどう考えられているか」に一切言及せずに「最強のキリスト教入門書」を名乗るのは看板に偽りありだろう。

実際には復活は、「重要だけど、枝葉に過ぎない」「付録」どころか、東方教会(正教会・非カルケドン派)、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)の全てで、(神学的見解をはじめとする微妙な温度差はあるものの)重要な信仰内容の一つを構成しており、多くの教派・信者が最も重要な信仰内容に数えている。たとえば名古屋ハリストス正教会の司祭ゲオルギイ松島は「復活信仰の無いキリスト教はあんこの入っていないあんパンを食べるようなもの」と評している。出典にあるように、橋爪氏の所属しているルーテル教会も復活信仰を重要なものとしており、その例外ではない(はずなのだが)。そもそも日曜日に教会に信者が集まるのは、日曜日にキリストが復活したことに由来しており、その重要性が表れている。

復活につき事実として捉えない信者・教会も居るには居るが、全体から見れば少数派である上に、事実ではないと捉える信者も「枝葉末節」「付録」とは考えない。
ハリストス復活! 実に復活!「トマスとともに」名古屋教会司祭松島執筆メッセージ

カトリック西千葉教会説教倉庫2008年 3月23日 復活の主日

復活日(イースター)礼拝のご案内 - 静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)

キリストの復活六本木ルーテル教会

神戸改革派神学校 校長 市川康則による「信仰直言『死人の復活~あり得ん?』」

振り向く信仰(二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨、石川和夫牧師)
p184, p185 「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」 極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視している。また正教会は「共働」概念を採る。

なお上述の通り、この箇所の橋爪の見解は、p116で述べている内容と矛盾している。
世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan

The United Methodist Church Our Wesleyan Theological Heritage
p245, p246 「聖霊は、大澤さんの言うように、ネトワークや相互感応みたいな作用」「(聖霊は)神からのもの」「人と神とをつなぐのが聖霊」「人々と神との、唯一の連絡手段が、聖霊」 少なくとも伝統的なキリスト教では、聖霊は独立の位格(イポスタシス:ヒュポスタシス)たる真の神として理解されている。「神からの【もの】」という一種の従属説は異端として退けられる。ゆえにもちろん「作用」「手段」としては理解されていない。

橋爪氏のこの説明と理解では、「聖霊は神ではない」ことになる。三位一体を取るキリスト教の大多数は、もちろん聖霊を神とみなすし、三位一体を取らないまま、聖霊を神とみなす教派もある。
CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Holy Ghost参照。「作用」「手段」に類する表現はどこにもナシ
p256 「アルメニア教会はカルケドン公会議に参加しなかったので、通常の三位一体説をとっていません」 アルメニア教会も三位一体説はとっている。議論が分かれたのはキリスト論(Christological controversy)。そもそもアルメニア教会というのは一組織名であって、教理教義を論じるのであれば「非カルケドン派」という枠組みが妥当。 Orthodox Unity - Statement Index内、Relations with the Eastern Orthodox Churchesより "Concerning the Christological controversy which caused the division, we..." (Statement by the Oriental Orthodox Churches, Addis Ababa, Ethiopia, 1965 )
p312 「一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて」 どこに出て行ったというのか?そのような記述は聖書のどこにも無いし、どこの教会でもこのような事は言われない。

「神がわれわれと共におられるからである。」(イザヤ書8章10節)
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)

これも、橋爪氏がどのような理解をしようと自由だが、「キリスト教を理解する」ための本であると売り出すのであれば、キリスト教での理解を述べるべきであろう。

なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)(p75, p76)
イザヤ書8章10節

マタイによる福音書28章20節

創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解

外部リンク



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