ふしぎなキリスト教 @ ウィキ

間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)

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shinobuyoshi

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当ページでは、橋爪大三郎大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。

2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。

※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
  • 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。
  • 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。
  • 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
  • p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。


聖書についての間違い




新約その1 (その2はこちら

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p134 「マルコによる福音書が一番古く、後からの福音書は先のものを参照して書いている。つまり、ひとつの系統の文書なんです」 ヨハネによる福音書がマルコによる福音書を始めとした共観福音書を参照して書いているか、つまり同じ一つの系統に属す文書であるかは不明である。
なるほど、この点は間違いではない、と反論されるかもしれない。しかし、137頁にある「福音書の系譜関係」においては、ヨハネによる福音書と他の福音書との関係がないように、つまり別系統の文書(というか、独立した文書)として示しているのだから、本書内で矛盾した主張をしていることになる。従って、論理的に橋爪氏は誤っているのである。
荒井献他『総説 新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981年、175頁以下
p137 大澤「(共観福音書は)相互に比較対照しながら一緒に読む福音書という意味でしょう」(橋爪氏、これを訂正せず) マタイ、マルコ、ルカ福音書が「共観福音書」と呼ばれるのは、これら3つの福音書で多くの記事が重複しており並べて共に観ることができるから、あるいはこれらが共通した視線を有しているからである。研究者でもない限り、相互に比較対照しながら一緒に読まなくてもいっこうに構わない。 Catholic Encyclopedia Synoptics
p139 「イエスは、自分で書物を書かなかった。最後は十字架で死んでしまうという話ですから、本人がそれを記録するわけにはいかない。」 どの福音書も「イエス・キリストの復活」で話が終わっている(マルコ福音書においても、現代残されている最後の部分は後代の加筆だとする説に則るとしても、十字架による刑死が最後ではなく、「空の墓」が最後の記述であって、十字架が最後の場面ではない)。

橋爪氏は「復活の話は後代に付け加えられたもの」という説を唱えているためこのような話し方をしているのかもしれないが、少なくともそれは全キリスト教に適用出来る見解ではない(むしろ全体からみれば少数派)。

むしろ「復活したイエス・キリスト自身が、自身の復活について書いた福音書」の方が説得力があるであろうに、そうされてはいないという実際の状況が、橋爪氏の説では全く説明がつかない。
マタイによる福音書: 28章
マルコによる福音書: 16章
ルカによる福音書: 24章
ヨハネによる福音書: 20章・21章
p141 大澤:福音書には「いちおう著者の固有名詞が各テキストにはついていますが、ルカとかマルコといった名前は、象徴的なものにすぎなくて、じつは共作のようなものかもしれない」。 「象徴的なもの」が何を意味するのか不明である。そもそも、マタイ福音書およびマルコ福音書の著者がマタイ及びマルコであるとは2世紀前半のパピアスの言葉(エウセビオス『教会史』3巻39・15以下に収められている)に、ルカ福音書の著者がルカであるとはエイレナイオスの言葉(エウセビオス『教会史』5巻8・3に収められている)に遡るが、そこでこれら3つの福音書の著者がマタイ、マルコ、ルカであると言われているのは、この著者名が象徴的なものとして考えられてではなく、福音書の由来を使徒にできるだけ遡らせようとしたためである。この点では、139頁で橋爪氏が、福音書の「作者は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ。ほんとうに彼らが著者なのか、議論があります」と語っているのが、正しい。大澤氏の左記の言葉は、橋爪氏のこの言葉を無視してしまっている。 荒井献他『総説 新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981年、127、146、162頁
p145 「いちばん古いマルコ福音書は、復活の記述がなく、墓がからっぽだったというところで、唐突に終わっている」 確かにマルコ福音書の終わりは唐突である。しかし、イエスの顕現物語は語られないにせよ、16章6節で、天使と思われる若者によってイエスの復活が女性たちに語られて、その後で唐突に終わっているのであって、墓がからっぽだったというところで終わっているわけではない。

なお、マルコ福音書のイエスは自身が復活すると何度も語っていることも指摘しておこう(8:31; 9:31; 10:33; 14:28)。
マルコ福音書16章1-8節参照(なお、9節以下は後代の加筆であり、元来のものではない)
p152-3 福音書のなかに、復活をめぐって、それを信じるパリサイ派と、信じないサドカイ派が論争する場面が出てきます」 正しくは、使徒言行録である(23章6節以下) 使徒言行録23:6-8
p153

p244
「イエスはガリラヤで、弟子たちのもとに現れ、そのあと天に昇った、と信じられるようになります」

「復活したイエスに、ガリラヤ地方に行ったら会えるというので、そちらに行くと、弟子たちのところにイエスが現れた。それから、天に昇って行った
復活したイエスのガリラヤでの顕現について語っているのはマタイ福音書であるが、この福音書では「そのあと天に昇った」、とは書かれていない(マタイ28:16以下)。復活顕現のあとで「天に昇った」と書かれているのはルカ福音書と使徒行伝であるが(ルカ福音書と使徒行伝は同じ著者によって著された)、これらにおいてはイエスが弟子たちに現れたのは、ガリラヤではなく、エルサレムである(ルカ24:36以下、使徒1:3以下)。

何故橋爪氏が、復活したイエスは天に昇ったと語っているにもかかわらず、イエスが現れた場所をルカ福音書に従ってエルサレムとはせず、マタイ福音書に従ってガリラヤとしたのかは、不明である。
マタイによる福音書28:16

ルカによる福音書24:36以下

使徒行伝1:3以下
p153

p165

p167
橋爪氏:「イエス・キリストは『神の子』だとする考え方を、確立したのはパウロです」

大澤氏:「最終的には、パウロによる解釈が定着して、イエスは『神の子』だということになったわけですが」

「イエス・キリストが神の子だと決めたのは、パウロです」
典拠不明。一般に、イエスが神の子であるとパウロがはじめて主張したとは考えられていない。と言うのも、パウロが会ったこともないローマの教会の人びとに宛てた手紙の冒頭で、イエスが神の子であることを共通の前提として語っているからである(ロマ1:4)。これは、イエスが神の子であるとは、パウロが受け取った教えであることを示しているだろう。 ローマの信徒への手紙 1:4
p154 大澤「イエス・キリストだったら救世主という意味ですよね。神の子だったら、一段神に近づいていますよね。」「おっしゃるように、イエス・キリストを神というか、神の子というふうに見たことで…」 大澤氏も橋爪氏も「神の子」を神と同じ存在だと考えているが、「神の子」とは「義人」の意味で、つまり決して神ではない人間に対して用いられる呼称である場合もある(知恵の書2章12節以下参照)。だからパウロはキリスト者を「神の子ら」と呼べるのである(ガラテア3:26、4:5 etc)。この点を理解せずに、「神の子」という文字面だけから、神の子が神と同じような存在だと判断している橋爪氏及び大澤氏の判断は、誤りである。 知恵の書2章12節

ガラテア3:26、4:5 etc
p154 「それから、処女懐胎の話は、もう少し、古い層に属する、ありがちな奇蹟の話だと思う」 ここで橋爪氏は、パウロがイエス・キリストを「神の子」とした(注。これが誤りであることは上記参照)時期よりも古くに「処女懐胎の話」が成立したと述べているのだが、パウロのどの書簡にも、更に70年頃に成立したと考えられているマルコによる福音書にも処女懐胎の話が語られていないのだから、こんなことは言えないはずである。なるほど、「思う」と語尾につけているのだから留保がある、だから間違えとは言えない、と反論する方がいるかもしれないが、大澤氏が続けて「そうですね」と肯定しているのに対して橋爪氏が何も言ってはいないのだから、誤りと指摘できよう。そもそも留保すれば何でも勝手なことを言っても良いわけではないと思う
p155 橋爪「福音書をよく読むと、イエスを『神の子』と明言していないんです。…福音書は…イエスが『神の子』であるかどうかに関して、及び腰である。」
大澤「唯一『神の子』を明言しているヨハネ福音書は…」
例えば、マルコ福音書では1章1、11節、9章7節、14章61-62節、15章39節という決定的な個所でイエスが(しかも、場合によっては神自身によって)「神の子」であると明言されているし、マタイ福音書では16章16節、ルカ福音書では1章35節という決定的な個所でイエスが神の子であると語られている。 新共同訳聖書「神の子」検索結果
p156 大澤「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていませんし、それらにしても、他人がそれほど深い思想的な意味も込めずに、思わずイエスをそう呼ぶ場面で出てくるだけです(百人隊長が十字架のイエスをそう呼んだり、悪魔がイエスを挑発したりする場面)。」 新共同訳聖書でイエスが「神の子」と語られている個所を検索すれば、マタイによる福音書で9カ所、マルコによる福音書で4カ所、ルカによる福音書で6か所であるが、これが「ごくわずか」と言えるのだろうか。何故なら、「『神の子』の概念を明言している」と橋爪氏が語るヨハネ福音書では8カ所だからである。従って、マルコ福音書が少ない、とは単純な検索結果としては言えるが、「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていません」とは言えない。

なお、上でも触れたが、共観福音書では神がイエスを「愛する子」「わたしの子」と言っている場面が記されており(マルコ1:11、9:7、マタイ3:17、17:5、ルカ3:22、9:35)、神がイエスをそのように呼んだ箇所まで含めれば、イエスを「神の子」と呼ぶ個所はさらに増える。従って、「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていません」とは言えない、と考えるのが適当である。

百人隊長や悪魔がイエスを神の子と呼ぶのも深い意味があるとキリスト教では考えられているが、同箇所に深い思想的な意味もない、と大澤氏が述べた根拠は不明。

特にマタイによる福音書16:16におけるシモン・ペテロがイエスを「神の子」とした箇所は、直後の箇所と合わせて、ペテロに連なるローマ教皇権の根拠としてローマカトリック教会では非常に重要視されており、同箇所につき教皇権の根拠としての解釈を否定する正教会およびプロテスタントとの間で今も議論になる箇所である。ペテロの「信仰告白」が「他人」による「深い意味も無い」ものとして判断した大澤氏の根拠は不明。

なお、マタイによる福音書27章42- 43節では、イエスを十字架につけた側である祭司長、律法学者、長老らが、十字架にかけられたイエスを「今救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから。」と嘲弄しており、イエスが神の子とされていたことは敵対者にも認知されていたことが記されている。
新共同訳聖書「神の子」検索結果

The Church Fathers' Interpretation of the Rock of Matthew 16:18 by William Webster

EKK新約聖書註解
p157 大澤「弟子たちに『お前たちは俺のことをどう思うか』と尋ねたら、ペテロが『あなたはメシア、生ける神の子』と答える。これに対してイエスは、否定も肯定もしていないんです。強いて言えば消極的な肯定という感じで、『そのことはお前の胸にしまっておけ」と告げている。…」橋爪「はい。それはマタイ福音書(16章16節)に書いてありますね」 マタイ福音書16章17節でイエスはペテロの答えに対して、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(Μακάριος εἶ, Σίμων Βαριωνᾶ, ὅτι σὰρξ καὶ αἷμα οὐκ ἀπεκάλυψέ σοι, ἀλλ’ ὁ πατήρ μου ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς.)と賞賛している。この「幸いだ」に当たるギリシア語(Μακάριος)の意味は全くの賞賛であることは、マタイ福音書5章3節以下「真福九端(八端)」に繰り返し登場する「幸いである」と同じ単語であることにも示されている。イエスがペテロの答えに「否定も肯定もしていない」のは、挙げられているマタイ福音書ではなく、マルコ福音書である(8章29-30節、ただしこちらには「神の子」は言われていない)。 Matthew 16:17 Greek Texts and Analysis (ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 16:17 Greek NT: Greek Orthodox Churchからギリシャ語部分は引用)
p158 「メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです。もっと端的に言えば、どこかの国の王が、解放者としてやって来る」 確かに軍事的リーダーであるメシアもいる。しかし、レビ記4章5、16節等では祭司が「メシア/キリスト」と呼ばれている。そもそも、歴代誌上16章22節に現れる「メシアたち/キリストたち」(ヘブライ語及びギリシア語で複数形!)はイスラエルの民一般を指すと考えられている。また、イエスの同時代のクムラン教団では、王的メシアと並び祭司的メシアも言及されている。従って、「メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです」とは、言えない。メシア/キリストとは神によって選ばれた人物のことであって、その役割が固定しているわけではないし、どこかの国の王だと決まっているわけでもない。 死海文書入門講座Ⅴ 和田 幹男 V 死海文書概観 2
p160 大澤「誰でも知っているように、イエスは…三日後に復活しました」 確かにマルコ福音書ではイエスが「三日のに」復活すると語られているが(8:31、9:31、10:34)、しかしそのマルコ福音書にしてもイエスが復活したのは三日である(十字架につけられた金曜日が一日目、土曜日が二日目、復活した日曜日が三日目。なお、マタイとルカはマルコのこの表現をきちんと訂正して「三日目」としている)。この点では橋爪氏が207頁で「三日に復活する」と語っているのが正しい。 聖書に現れる「三日」
p168-9 橋爪氏:(パウロがイエスを「神の子」と考えたことに関連して)イエスは「生まれた最初から」神の子であることが「計画されていた。そうすると、処女懐胎で生まれたりすると、都合がいい」。「初めから、神の計画によって生まれた特別な存在、と考えられる」。 イエスが「処女懐胎で生まれた」とはパウロは全く語っていないのだから、パウロが処女懐胎を知っていたと論証することは不可能である(パウロが処女懐胎を知ったとしたら信じるかどうか、ということとは別問題である点に注意!)。更に、橋爪氏の主張はローマ書1章4節「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(新共同訳)と矛盾している。 ロマ書1章(口語訳)
p170 「イエスが、ヤハウェを父と呼んでいたから、イエスが神の子と考えられるようになったのではないか」 トビト記(前200年頃成立?)13章4節でトビトは神を賛美した祈りの中で「神は私たちの主であり、私たちの父」と述べている。更に、シラ書23章1、4節、知恵の書14章3節などでも神を父と呼んでいる。つまり、神を父と呼んでいたユダヤ人は、イエスだけではない。つまり、「イエスが、ヤハウェを父と呼んでいたから、イエスが神の子と考えられるようになった」わけではない。 A Critical and Exegetical Commentary according to St. Matthew, p44参照
p175 「イエスの一行が食事をしていると、女性が入ってきて、高価な香油を瓶からにかけたり」 マルコ福音書14章3節及びマタイ福音書26章7節に従えば、「髪」ではなく「」である。「髪にかけた」は、ルカ福音書7章38節及びヨハネ福音書12章1節以下でイエスの足を女性が自分の髪で拭ったことと混同しているためか。しかし、こちらの場合、女性が高価な香油をかけたのはイエスの頭ではなく、足である。 マルコ福音書14章3節
マタイ福音書26章7節
ルカ福音書7章38節
ヨハネ福音書12章3節
p178 「イエスのいう『神の国』は、これ(注。ユダヤ教的な「神の国」)を裏返したものです。…『ヨハネの黙示録』によると…」 イエスの「神の国」理解を語っているはずなのに、『ヨハネの黙示録』に話が飛んでいるのは、不明。たしかに『ヨハネの黙示録』には、この書物にあることはイエス・キリストによって伝えられたことだ、書かれているが(1章1節等)、橋爪氏は歴史上のイエスの神の国理解を説明していたはずなのだから、ここで『ヨハネの黙示録』を持ち出すのは、おかしい。
p176以下 「9キリスト教の終末論」で「神の国」を「場所」とのみ捉えている点について。 「神の国 η βασιλεια του θεου/των ουρανων」は、神の「領土」「土地」を意味するというよりはむしろ、神の「支配」を意味する。大澤氏は神の国が「イメージしにくいです」(179頁)と語っているが、「神の国」が「神の支配」をも意味することを知らなければ、当然であろう。

これは「解釈」のレベルではなく、語義レベルの問題。βασιλειαは新約のギリシャ語でも古典ギリシャ語でも「王国」「領土」のほかに「支配」「主権」を示す語彙である。むしろ岩隈は「王たる事」「王位権」「支配」「統治」を第一義とし、ルカ福音1:33、19:12を挙げている。つまり辞書を引けばあっさり氷解する疑問である。
Catholic Encyclopedia :Kingdom of God

岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』p83, 2006年5月11日

"Greek - English Lexicon, Liddell & Scott" p128, 1974
p183 橋爪「福音書の中に、一ヵ所だけ呪いの言葉があって、いちじくの樹の話なんですけど、エルサレムでお腹が空いたのでイエスがいちじくの樹のところに行ったら実がなっていなかった。そこで、『枯れてしまえ』と言った。そうしたら、『すぐに枯れた』というのと『しばらくして枯れた』というのと、ふたつのヴァージョンがあるのですが、枯れてしまった。枯れて、火にくべられるだろうというわけです。これはふつう、イエスの言葉を聞かないでパリサイ派に従っている人々のたとえだと解釈することになっています。とにかく呪われたグループがあって、滅びの道に入り、焼かれるということですね、裁きの日に」
大澤「もちろん聖書に書いてあることだから、いちじく=パリサイ派だと解釈されているんでしょうけれど
ここで語られている奇跡物語は、マルコによる福音書11章12-14、20-24節並行マタイによる福音書21章18-22節である。
まず、細かいことではあるが、イエスは「枯れてしまえ」とは言っていない。イエスの言葉は、マルコによる福音書では「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、マタイによる福音書では「今から後いつまでも、お前には実がならないように」である(訳はいずれも新共同訳に従った)。更に、場所はエルサレムではなく、ベタニアとエルサレムの途中においてである(マルコ11章12節、マタイ21章18節)。
実のならないいちじくが象徴しているのは不信仰な人々でありその中にはパリサイ派も含まれる、と解釈する人はいるだろうが、「いちじく=パリサイ派」と解釈することになっているわけではない。そもそもマタイによる福音書では、信仰が強ければ不可能と思われることもできるのだ、という話に編集されているので、イエスの言葉を聞かない敵対者を想定する必要はないかもしれない。マルコによる福音書では、サンドイッチ構造から、神殿体制(に関わる人々)が滅びるとは言っているかもしれないが、しかしパリサイ派はここには全く登場しない。祭司長や律法学者が滅びるのだ、と言うのならば、納得できるのであるが、
枯れたいちじくは「火にくべられるだろう」とは語られていない。
p194-5 大澤「イエスは、律法を廃棄して、それを愛に置き換えた。ただ、律法を単純に否定し、排除したかというより、むしろ、愛こそが律法の成就だということになっています。弁証法でいう『止揚』という感じです」(橋爪氏、反論なし) イエスが律法を「廃棄」したとは福音書には書かれていない。むしろ、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とイエスは語っている(マタ5章17節)。もしこれをイエスに帰せず、福音書記者の思想とするならば、その根拠を明らかとしなければならない。
因みに、愛こそが律法の成就とは、イエスではなくパウロの言葉であろう(『ガラテヤの信徒への手紙』5章14節、『ローマの信徒への手紙』13章8-10節)。
マタ5章17節
ガラ5章14節
ロマ13章10節
p197 「イエスは答えて…『…律法はこの二つに尽きている」と述べた。たくさんあった律法が、たった二条になってしまった 橋爪氏が念頭においていたのは、マルコ福音書12章29-31節か、それともマタイ福音書22章37-40節か不明であるが、イエスの言葉は前者では「この二つにまさる掟はない」だし、後者では「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」なのだから、「尽きている」とは言っていない。なるほど、これらは新共同訳からの引用だから、橋爪氏の見ている日本語聖書にはそう書いてあるから間違いではない、と言う方がいるかもしれないが、マルコ福音書のギリシャ語もマタイ福音書のギリシャ語もどう考えても「尽きている」とは訳せない。自説のために聖書の文面を変えてはいけない。そもそもどちらの福音書であっても、すべての掟が大切であることが前提であり、その上でどの掟がより重要であるか、根本的であるかが問題となっているのだ。従って、「たった二条になってしまった」わけではない。 マルコ福音書12章
マルコ福音書12章31節ギリシャ語

マタイ福音書22章
マタイ福音書22章40節
p198 イエスは「それから、呼びかけに応えるのに、割礼やほかの、どんな具体的な行動も必要ないことにした 異邦人がイエスをキリストと信じる人々の群れに加わる際に、割礼が不必要であることが決まったのは、50年頃に行われた所謂「使徒会議」(使徒言行録15章1節以下、ガラテヤの信徒への手紙2章1節以下)の決議以降であり、それまでは割礼を必要と考える人々と不必要であると考える人が教会内に混在していた。これは明らかに史的イエスが割礼の不要を語らなかった、あるいは(ユダヤ人の間でのみ活動していために)語る必要がなかったためだと考えられよう。 使徒15章1節以下、ガラ2章1節以下
p199 「12 贖罪の論理」で、橋爪氏が贖罪死を同害報復説の観点から説明している点について。 誰が同害報復説を唱えているのか不明。そもそもマタイ福音書5章38-42節でイエスは同害報復という行いを否定しているが、これとイエスの死の同害報復説とをどのように調和させるつもりなのだろうか。 マタイ福音書5章

その2に続く


外部リンク



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