ナイトウィザード!クロスSS超☆保管庫

第03話

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 喫茶店ぺリゴールに突如訪れた二人の訪問客は、柊や紫帆たちにとっては図らずも驚くべき来訪者たちとなった。
 霧谷雄吾は日本におけるUGNの最高責任者だし、アンゼロットにしたところで、軽々しく“下界”に降りてくるのは、任務依頼にかこつけて柊をおちょくるときぐらいのものである。
 先程、戸外から聞こえた車の停車音は、おそらく霧谷を護衛するUGNエージェントのものであろうし、アンゼロットがここにいる以上はロンギヌスの護衛もぺリゴール周辺に控えているはずだ。
 空を飛ぶ、というけったいな機能がついているリムジン・ブルームはエンジン音がしないはずだから、たぶん戸外からの気配はわずかであるはずだった。
 それでも、アンゼロットがこうして自らしゃしゃり出てきたのであれば、きっとロンギヌスの精鋭たちに護られての登場に違いない。
 二つの組織のトップが揃って入店してきたことで、思わず呆気にとられていた柊たち。
 そんな彼らの内心の動揺など意に介した様子もなく、スーツの男 ――― 霧谷は店内を鷹揚に見回し、柊の顔の上でその視線を止めると、その頬に浮かべた柔らかな微笑をますます深めた。
「柊蓮司君ですね。始めまして、UGN日本支部長を務める霧谷雄吾と申します」
 静かな声色であった。
 大人の男の余裕、というか、一組織の長である重責を担うだけの貫禄、というか。
 そんなものに気圧されつつ、思わず柊がギクシャクと立ち上がる。
「柊、蓮司っス。えと、よ、よろしく」
 挨拶の言葉も、ついついどもりがちになる。
 自分がこの年齢に達したとき、果たしてこんな風に振舞えるだろうか ――― などと。
 そんなつまらない考えが頭の片隅をかすめ、なんだか俺らしくねえな、と内心苦笑する。
 霧谷の差し出した右手に誘われるように、柊は求められるがまま彼と固い握手を交わした。
「一度お会いしたいと思っていました。お噂はかねがね」
 霧谷が、柊の目を覗き込みながらそう言った。
「……下がるとか、落ちるとか、そんな噂っすか」
 こういう憎まれ口をつい叩いてしまうところも、まだまだ自分が子供である証拠か。
 そんな軽い自己嫌悪を感じるのも、柊にしては珍しいことである。
「……世間に流布する噂には、下世話な風評もつきものです。私は、君に関する噂や数多の報告の中から、真実の君の姿を見極めたい、と思っていますよ」
 握り締める霧谷の右手の力がわずかに増したようだった。
「曰く、世界の守護者の最も信頼厚き懐刀。曰く、最高クラスの魔剣使い。曰く、“神殺し”」
 霧谷の言葉が、柊の名に冠せられた数々の異名を数え上げる。
「乱れ飛ぶ揶揄や悪評から、私が君の真実の姿を見出すとしたら、さしずめそんなところです」
 世辞や社交辞令といった雰囲気ではなく、霧谷は心底からそう思っているようだった。
 柊の手を握る霧谷の力は存外強い。
 それでも、それは痛みを決して伴うことはなく、むしろ魔剣を振るう柊の手の形を確かめるような、熱い握手であった。
「や、その、なんつーか……」
 面と向かって褒められる経験に乏しいため、なんと言葉を返したらいいものか困ってしまう。
 だからついこの場の空気を紛らわせるように、
「おい、アンゼロット! 二人して俺のことからかってるんじゃねえだろうな!」
 霧谷の背後で済ました顔をしている銀髪の少女を怒鳴りつけた。アンゼロットは片目だけをちろりと開けて柊を見上げると、握手を交わす二人の男の真横をするりと通り過ぎる。
「わざわざそんなことのために、わたくしがご多忙を極める霧谷さんまで巻き込むはずないでしょう?」
 そんな台詞を吐きつつ、アンゼロットは紫帆たちのほうへと歩み寄っていく。

「柊さんで遊ぶときは、それなりのやりかたというものがあるんです。それに、そういう面白いことは、ひとりの愉しみにとっておくのがわたくしの主義ですから」
「おいっ!? いま、お前さりげなくとんでもねえこと言いやがったな!?」
 世界の守護者と魔剣使いのやり取りを楽しげに聞きながら、霧谷がようやく柊の右手を離す。
「君への評価と、こうして出会ってみての感想は、まぎれもなく私の本心ですよ。それに、きっと彼女も ――― 」
 どこか笑いを含んだ霧谷の言葉に、アンゼロットが愕然と振り向いた。
 それは、余計なことを口にするな、とでも言いたげな表情である。
「信頼できるウィザードをひとり、今回のミッションにあたって紹介して欲しいとの私の要請に、躊躇なく君の名前を挙げたぐらいですからね」
「ちょっ……霧谷さん!? 余計なこと仰らないでください!?」
 霧谷の言葉に、慌てふためくアンゼロット ――― そんな世にも珍しい光景に、柊も面食らう。
「わ、わたくしはただ、現在任務に当たっていない、高校を卒業してのうのうと太平楽に過ごしている野良ウィザードが、柊さんひとりしか思い浮かばなかっただけですっ」
「……あー、あー、そーだろーよ……そういうことだろーと思ったぜ……」
 売り言葉に買い言葉、とでも言えばいいだろうか。
 言葉の表面上だけを捉えるならば、少々どぎつく、少々険悪な二人のやり取りである。
 それでも、アンゼロットと柊の憎まれ口の叩き合いを、霧谷も紫帆たちも生温かい目で眺めるにとどめておいた。
 当人たちは言葉の上では否定するかもしれないが、案外この二人、彼らの目から見ても悪くないコンビのように思えるのである。
「……コホン。汚見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした」
 気を取り直して、歩み寄った紫帆たちに向けて一礼をするアンゼロット。
 優雅に頭を垂れる様子は、まるで一枚の絵画を思わせる優美さである。外面だけなら絶世の美少女である彼女の仕草は、初対面の紫帆たちを容易くだまくらかせる程度には洗練されている。
「わたくしの名前はアンゼロット。こちらにいる柊さんを、霧谷支部長からの要請で派遣したものです。以後、お見知りおきを」
「こ、こちらこそ」
「ど、どうぞよろしく」
 紫帆とミナリがどもりながら挨拶を返す。
 自分たちよりも明らかに年下に見える銀髪の少女の、ひどく大人びた物言いや仕草、そしてなによりその美貌に圧倒されてしまったようだった。
 その中で柳也だけが、煙草をくゆらせながら胡散臭げな視線でアンゼロットを眺めている。
 紫帆やミナリたちと違って、見た目の若さや愛らしさなどに目を曇らせるほど、柳也は世間知らずではないようだった。
 そもそも、自分が属するUGNの最高意思決定機関である中枢評議会にだって、似たようなのがいるのだから。
 確かテレーズという名前の、アンゼロットと同年代程度の少女が、中枢評議会“アクシズ”の十二人のメンバーのうちの一人であるはずだ。
(……やなヤツのこと、思い出しちまったな)
 テレーズの名前と同時に、一番苦手とする“悪友”の面影を同時に連想してしまい、思わず柳也が顔をしかめる。
 銀目の鴉の事件を共に戦った後は音沙汰なしではあるが、アイツはきっといまでも自身の好奇心を満たす研究に、どこかで没頭しているのであろう ――― そう思う。
 上の空で柳也がそんなことを考えていると、脇腹を軽くつつかれた。

 いつの間にか隣に寄ってきていたミナリが、
「柳也さん、挨拶。挨拶、きちんとしてください!」
 こちらにそんなことを囁いている。
「ん?」
「もう! 鳴島市のUGNを、“一応は”預かる身なんですから、きちんとしてください!」
 柳也に向かって小声で叫ぶ、という器用な芸当をミナリが披露した。オーヴァード組の中では、性格が真面目で堅物な分、権威とか格式とかそういったものにミナリが一番弱い。
 日本支部長である霧谷が連れてきた外来の客人を前にして、いつもよりも舞い上がっているようだった。
「別に構うことはないっすよ、柳也さん。それに、ミナリも紫帆もいちいちそんなこと気にすんな」
 手をパタパタと振りながら柊が横から口を挟む。
「だけど、柊さん ――― 」
「あらあら、いいんですよ。あまり肩肘を張らずに、どうぞお気を楽になさってくださいな。そうでないと ――― 」
 なおも言いつのろうとするミナリに意味深な微笑みを投げかけ、
「 ――― いまからそんなに気を張っていては、この後、到底保ちませんよ?」
 聞きようによっては穏やかではない台詞を、アンゼロットが呟いた。
「……そろそろ本題に入らせていただきたいのですが」
 お互いの陣営の自己紹介があらかた終わった頃を見計らい、この場を仕切ったのはやはり霧谷である。その言葉に、辺りが水を打ったように静まり返った。
 一同が承諾の意を示し、その場の全員が首肯するのを確認すると、
「ことの始まりから、私の説明できる限り、すべてを説明させていただきます ――― 少し長い話に、なりますが……」
 このときばかりは深刻な表情を隠そうともせず、霧谷は重々しく口を開いたのであった。

     ※

 アンゼロットの補足説明を合間に挟みつつ、霧谷が柊たちにすべての話を終えた頃には、とっぷりと陽は暮れ、時刻はすでに午後二十時を回っていた。
 彼らの入店後、すぐに『CLOSED』のプレートをかけられたぺリゴールの入り口の扉の前で、柊たちの見送りを受けた霧谷とアンゼロットの二人は、示し合わせたかのように同時に振り返り、
「かつて前例のない事態であるということだけは理解してくださいね、柊さん」
「できる限りの協力や支援は惜しまないつもりです。どうか、よろしくお願いします」
 口々に、柊たちへの叱咤とも激励とも取れる言葉を最後に残すと、同じリムジンへと乗り込んでいったのである。
 仮面のロンギヌスが二人のために開いた後部座席のドアから、アンゼロット、次いで霧谷が車内へと滑り込む。
 わずかのときを置かずして空中にホバリングを開始したリムジン・ブルームの片側の硝子窓が音もなく開くと、そこから霧谷が顔を覗かせた。
 立ち尽くす四人の引き締められた表情を真正面から見据え、彼が最後に目を止めたのは、出会ったときと同じく柊の姿である。
 霧谷の視線が、しっかりと柊の視線を捕らえた。
 無言で、内心に秘めたなにごとかを彼に伝えたいと願うかのようであった。
「どうか。柊君、どうか」
 どこか祈りを込めるような面持ちで呟いた霧谷の姿が、ひどく印象的である。
「……任しといてください」
 たった、一言。
 任務に就くときと同じように。誰かに助けを求められたときと同じように。
 いつもそうしてきたように、柊が答える。
 いや、霧谷の真摯な目が、そう答えさせたといっても良かった。
 アンゼロット専用のリムジン・ブルームと、UGNエージェントたちの乗る数台の乗用車が続けざまに発進し、その影が夜闇の向こうに掻き消えて見えなくなった頃、一陣の風が吹き抜けた。
 冷たい夜気を孕んだ、身震いするような強い風である。
 走り去った車をいつまでも見送っていた四人のうち、最初に振り返ったのは柊であった。

 自分の後ろに立っていた紫帆の顔の上に素早く視線を走らせると、
「大丈夫だって。なにも霧谷さんの言うことが正しいって決まったわけじゃねえんだ。だから、あまり気にするなよ」
 短く、しかし温かい声音で呼びかける。

 紫帆の顔色は ――― 夜の戸外でもはっきりと見て取れるほどに、青褪めていた。

「へ、平気平気。なんとも思ってないよ、うん」
 柊の呼びかけに一瞬遅れて、強張っていた顔を無理矢理笑いの形に取り繕う紫帆。見ているだけで痛々しくなるほど気丈に振る舞い、わざとらしくガッツポーズを作ってみせた。
 無言で柳也がきびすを返し、ぺリゴール店内へと姿を消す。
 ミナリが、紫帆を気遣うように彼女の肩にそっと手を置いた。
「紫帆……中に、入ろう?」
「う、うん。外、寒いもんね」
 ミナリへ返す言葉も、どことなくギクシャクしている。
 無理をして作り上げた笑顔は、ともすればなにかの拍子に泣き出してしまいそうなほどに引きつり、唇は溢れ出る涙声を抑えこむようにふるふると震えていた。
 不意に、紫帆のもう一方の肩を柊の手が力強く捕まえた。
「柊クン……?」
「紫帆。ミナリの言うとおり、早く中に入ろうぜ。色々考えなきゃならねえことが多すぎるから、今夜はしばらくしたら解散にしよう。今夜はお互いにゆっくり休んで、明日また、な」
 けっして気張ることない、平素と替わらぬ柊の声色は、不思議と温かく紫帆の胸に染みこむようだった。その言葉を噛み締めるようにして、紫帆がゆっくりと頷く。
 そのとき、ぺリゴールの店内から、一足先に引っ込んだ柳也の、彼にしては珍しい大きな声が三人に呼びかけた。
「風邪ひきたいのか、お前ら。熱いコーヒー淹れてやるからさっさと戻れ」
 紫帆とミナリが、揃って顔を見合わせた。柳也が自分以外の誰かのためにコーヒーを淹れることは、それほど珍しいことなのである。
「……あはは……なんだか、柳也さんまで気を遣ってくれてるのかな……?」
 そうだとしたら、なんという不器用な気の遣い方であろうか。
 ミナリや柊たちの遠回しな励ましに、わずかに気力を取り戻したのか、紫帆の顔つきがようやく普段の明るさを取り戻す。
「うん、柳也さん特製のコーヒー飲んで、あとはまた明日にしよ。委員長、柊クン」
「……ええ」
「ああ」
 短く応じる二人に、ぺこり、と紫帆が頭を下げる。
「もしかしたら色々迷惑かけるかもしれないけど、そうなったらごめん。私、みんなに助けてもらわなきゃならなくなると思う。だから……」
 唐突に、紫帆の頭の上に大きな手が乗せられ、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられた。
 言うまでもなく、それは柊の手であった。
「そういうのはナシにしようぜ。もう、俺とお前は一緒に剣を取って戦った仲間なんだ。仲間だったら、そういう気遣いはすんなよ」
「持ちつ持たれつでいいじゃない。だから顔を上げて、紫帆」
 ミナリの声が柊に続く。
 霧谷のもたらした言葉の幾つかは、紫帆にとって大きな衝撃と不安をつのらせるものだった。

 UGNが、ウィザードという外部の人間を招聘しなければならなかった理由。
 いまだ茫洋として輪郭の見えない、しかし、ただならぬ事態の発生を予感させる様々の事柄。
 そして、その『事件』の中心に“あのとき”と同様、またもや自分が置かれているのではないかという不吉な指摘に、紫帆は正直、狼狽しきっていたのである。

 だが ―――

「ありがとう。二人とも、よろしくね」
 力強く自分を支えてくれる仲間たちの存在に勇気づけられる。

 委員長。
 柳也さん。
 そして、今朝知り合ったばかりだけれども、柊クン。

 くるりと振り返ると、ぺリゴールの扉に紫帆が手をかける。
 開かれた扉の隙間から、店内の暖気に混じって、芳しく香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。

 すべては明日。明日、みんなと一緒に考えることにしよう。

 霧谷とアンゼロットの告げた、『我々が共闘しなければならない事態』のことなんて、自分ひとりの頭で考えたところで、簡単に解決できることではないはずだから。
 人知れず小さく頷くと、紫帆は、熱いコーヒーの待つ店内へと舞い戻る。
 柊とミナリが彼女の背中を追うように続き、ぺリゴールの扉が三人の姿を完全に店内へと飲み込んだ。
 夜は、ますます深く。
 風は、ますます冷たい。
 鳴島市を覆い始めた暗雲の分厚さに、このときはこの場の誰ひとりとして、気づくことはなかったのである ―――

     ※

「組織の長たるもの、勘、などという曖昧なものを判断材料にしてはいけないことぐらい、十分に心得ているつもりなのですが ――― 」
 自嘲気味に呟くと、リムジン・ブルームの車内で霧谷がほろ苦く笑う。
 豪奢な毛皮のシートに深々と腰掛けた霧谷は、ひどく疲れきった面持ちで、対面した銀髪の少女に目をやると、彼女の返答を待つかのように押し黙った。
 銀髪の少女 ――― アンゼロットは驚いたように目を見開いて、
「まさか、霧谷さんともあろうかたが、本当に“勘だけ”で動いているわけではないでしょう?」
 と、鈴を転がすような涼やかな声音で柔らかく反駁する。
 ぺリゴールでの柊たちとの会見の後、帰りの車中での二人の会話であった。
「まるっきりの勘というわけではありません。ですが、現状の事態の把握は、まだ私の推測の域を出ていません。贔屓目に見ても、ただの『憶測』というところがせいぜいではないでしょうか」

 貴女にウィザードの出動を要請したこと、私自ら七村さんたちに会いに行ったこと。
 これは軽率な行動だったと、実はいまでもそう思っています ――― そう、霧谷が言う。
「空が落ちてくるのではないかと無用の心配をした男の故事のように ――― ただ私の軽挙妄動だと笑われるだけならば、むしろその方が気は楽なのですが」
 目を伏せる霧谷を、アンゼロットが傷ましげに見つめている。

「……鳴島市近郊におけるジャーム発生率や、レネゲイド犯罪の発生件数が“ある時期”を境にして激増している、という確かなデータがあっての推論なのでしょう?」
 アンゼロットの口調は、まるで憔悴する霧谷を励ましているようでもあった。
 これも、彼女にしては珍しいことである。
「ええ。ですがそのデータも、私の推論との因果関係を証明することができて初めて、説得力を持つものです。現状では、なんとも」
 霧谷の言葉はあくまでも自分に厳しい。
 アンゼロットの言う『鳴島市周辺のレネゲイド事件の増加』とは、ぺリゴールでまず初めに霧谷が紫帆たちに語った事柄であった。
 鳴島市に隣接する各市を含む一地帯において、日を追う毎、週を追う毎に事件の発生率が増大しているという詳細なデータを、まずは霧谷が紫帆たちに説明した。
 異変の始まった最初の週は二件。しかし翌週には二件が六件へと増え。
 六件が九件。九件が十三件。十三件が十六件と、その増大は止まるところを知らなかった。
 各週単位で増加するレネゲイド犯罪、ジャーム出現報告のリアルな数字に、紫帆たちは息を呑んでいた。
『先週は、鳴島市を含む周辺七都市で、計六十件の報告が寄せられました』
 霧谷の示した数字の大きさに、そのとき一同の表情に固いものが走ったものである。
 レネゲイドに関する知識は付け焼刃で、あまりに乏しいものであるとはいえ、さすがの柊ですらも、その数字の大きさに顔をしかめたほどだった。
 彼らの反応の顕著なさまに、言葉を続けることを一瞬躊躇った霧谷だが、先延ばしに出来ない以上は決意を固める、こう言うしかなかった。

『この増加傾向は、“ある日”を境にスタートしています……それは ――― 銀目の鴉事件の収束した、そのすぐ翌日からです』、と。

「……あのときの、七村さんの顔がまだ目に焼きついていますよ」
 ぺリゴールでは抑えていた焦燥や苦悩が、二人きりのリムジン内で一息に噴出したように、霧谷が言葉をこぼす。
「霧谷さんは、お優しすぎます」
 眉根を寄せるアンゼロットの声も、どこか苦渋に満ちているようだった。
 それは、従うものたちや、配下のものたちが居る場所では決して面に出せない心情の発露である。
 彼らの手前、人間的な弱味を見せるわけにはいかない組織の指揮官同士、奇妙なシンパシーが芽生えているかのようである。
「優しい、というのとは違うと思いますよ。やはり、これが私の弱さなのかもしれません。アンゼロット。貴女にも迷惑をかけます」
「そんなことは……霧谷さんの報告の内容を伺えば、わたくしが動くのは当然のことですわ」

 まったく同時期に、紅い月と月匣までもが“ジャーム出現と同じポイント”で観測されているという事実を指摘されては腰を上げざるを得ませんわ ――― アンゼロットが、霧谷の言葉の後をそう引き継いだ。
 UGNが、アンゼロットに協力要請をした理由。
 それは、『ジャームとエミュレイターが行動を共にしているとしか思えない』という、前代未聞の報告に所以している。

 アンゼロットが柊を鳴島市に送り込んだ背景の説明としては、これで十分であっただろう。
 そして、この異変と紫帆の存在になんらかの因果関係があるのではないかという見解を霧谷がほのめかしたとき ―――

「彼女にあんな顔をさせるつもりはなかったんですが……これは、言い訳ですね。私はあまりにも無神経すぎたかもしれない」
 凍りついた紫帆の笑顔。崩れ落ちそうな膝。
 濡れた瞳が、そこから零れ落ちそうになるものを必死で引き止めるように、なけなしの力を込めて見開かれていたのを、霧谷は思い出している。
「誰かが言わなければなりませんわ。もし、霧谷さんがあそこで言葉を濁していたら、わたくしの口から言おうと思っていました」
 アンゼロットの脳裏にも、たぶん紫帆のあの顔が浮かんでいたに違いなかった。眉根を寄せて溜息をつく白皙の美貌が、深い憂いに満ちている。
 世界の危機を回避するためにはどんな手段も厭わないと陰口を叩かれることもある彼女とて、その判断を好き好んでしているわけではないはずだ。
「ですが、柊君に睨まれたときは、さすがに肝を冷やしましたよ」
 霧谷の話にじっと無言で耳を傾けていた柊は、見た目にもはっきりと分かるほど憤っているようだった。
 紫帆を中心として事件が展開しているのではないかという意見が、UGN内部でも沸き起こっていること。
 事態の進展次第では、大規模なオーヴァード部隊投入を視野に入れた作戦行動の手配が、一部の上層部の指示で準備されているということ。
 最悪、紫帆には少々窮屈な思いをしてもらうことになるかもしれない ――― 言葉は悪いが、監視付きでUGN施設内に軟禁という選択も在り得る ――― ということ。
 霧谷がここまで喋ったところで、柊の目付きがひどく険悪なものになっていたのを、さすがにアンゼロットはすぐさま気がついた。

『……という最悪の事態を防ぐべく、霧谷さんがわたくしにウィザードの派遣依頼をされたのです。この件に関しては、柊さんに全面的な信頼を寄せていますよ』
 霧谷に助け舟を出すようなアンゼロットの台詞に、
『あったりまえだっつーの! 言われなくてもそのつもりだ!』
 ふてくされたように柊が吐き捨てて、そっぽを向いた。

「放っといたら、霧谷さんの胸倉を掴みかねませんから、あのひとは」
「はは。ですが、彼も最後には納得してくれていましたからね……いい、若者ですね。彼は」
 霧谷とアンゼロットが、少しだけ笑う。
 重苦しく垂れ込めた車内の空気が、わずかに薄れたようだった。

「まだ、すべての情報を開示するときでは、ないのでしょうね」
「ええ。わたくしは、そう思います。霧谷さんの仰るとおり、この一件が杞憂に過ぎないのだとしたら、悪戯に混乱を招くだけですから」
 ふう、と霧谷の唇から溜息が漏れた。

「……今夜は、ここでお開きにしましょう。根を詰めすぎるのもよくありませんから。“世界の守護者”の重責を背負っている貴女なら、なおさらです」
「あら、お気遣いいただいて。ですが、霧谷さんこそ、日本支部長ほど肩のこる仕事はないと、わたくしは思いますわよ」
 顔を見合わせて、微笑みあう二人。

「お時間があれば、秋葉原へ向かいませんか? 任務の一環で私が経営する喫茶店がそこにあるんです。よろしければ、私にお茶をご馳走させてください」
 トワイニングのアールグレー。
 それともフォーションのアップルティーなどいかがです? ――― 霧谷の言葉は、アンゼロットの微笑みに深みを増し、鬱蒼とした面持ちを吹き飛ばす効能があったようである。
「霧谷さんが直々に淹れてくださるのですか? それでしたら、秋葉原でも登別でもどこへでも向かいますわ ――― 行き先を変更します。秋葉原の……」
「ゆにばーさる、という喫茶店です」
 二人の指示を受けてリムジンを操るロンギヌスがハンドルを切った。
 時刻は二十時半。夜の茶会というのも悪くはないだろう。
「……彼女たちも、こうして今夜は息抜きをしてくれているといいんですが」
 霧谷が、空飛ぶリムジンのサイドガラスから下界を見つめながら、そう呟いた ―――

     ※

 暗い。昏い。どこまでも深く、無窮の暗黒が満ちている。

 場所は定かならず。時刻も確かならず。
 屋内なのか、戸外なのかそれすらも分からない。
 朝なのか、昼なのか、夜なのかそれすらも分からない。
 暗いのだから夜なのだろうと思うのは浅墓な見解だ。

 なぜなら、いくら夜でも“こんなに暗い”夜は存在しえぬはずであるからだ。

 暗すぎて、夜ではない。
 かといって、陽の光が指す余地もそこにはない。

 ひるがえって、ここは屋内なのか ――― いや、さきほどから辺りに湿った風が吹き抜けている。
 では、戸外なのか ――― それにしては、この閉塞感と息苦しさは、只事ではない。

 もはや存在しない場所。
 すでに失われた時刻の狭間。

 おそらく、ここはそういうところなのであろう。

 その闇の一角で、蠢く人影があった。
 漆黒よりもなお黒い空間の中にあって、なぜかその人影は、輪郭までもがはっきりと見て取れる。
 たおやかな少女の姿をしたそれは、歳の頃で言うなら十歳前後の幼さであった。
 しかし、その唇に浮かんだ、あるかなしかの薄い微笑みから漂う妖艶さはどうだ。
 子供の浮かべる類いの笑みでは ――― いや、浮かべていいような微笑では決して、ない。
 肩の辺りで綺麗に切り揃えられた髪は黒。切れ長の瞳は、やはり同じく闇の色。
 際限ない黒を湛えた瞳は、ただ真っ直ぐに前方を見つめている。

「そこにいるのでしょう?」
 十歳の少女の姿で、幾星霜の年輪を経たものでなければ発し得ない声を発する。
 それに応えるように、粘つく大気を孕んだ風が巻き起こり、暗黒の空間の中にもうひとつの人影を生み出した。
 かさり、かさり、と乾いた音がする。
 紙を擦るような、そんな音がする。
 風が運ぶ匂いは黴の匂いだ。年月を経た古書のみが持つ、特有の黴の匂いである。
 それは新たに現れた人影が手に持った、いかにも古ぶるしく、重たげな一冊の書物から漂ってきているようである。
 愛しげに、まるで恋人を腕に抱く抱擁のごとくに、分厚い書物を胸に抱いた人影は、これもまた少女の姿を取っていた。
 腰まで覆う長い髪。眠たげに細められた紫色の瞳。
 表情に乏しく青白い顔は、細面ながらも美しい。こちらは ――― 十八、九歳の外見である。
 ローブのような、纏うものの国籍も分からぬ衣装を細身の身体に着こなした少女は、幼い呼び手の眼前にゆっくりと歩み寄る。
「ええ……貴女と行動を共にするようになってからは、いつでも。いつでも、側にいますよ……?」
 幼い少女はゆっくりと頷くと、長い髪の少女を見上げる。
「貴女の言葉通り、世界の守護者は柊蓮司をこの一件に介在させたようですね、“秘密侯爵”」
 聞くものが聞けば驚愕するに違いない禁忌の名。
 それは、ウィザードであれば肌に粟立つものを抑えることを禁じ得ぬ、裏界の魔王の名であった。
 “秘密侯爵”リオン=グンタ。それが、長い髪の少女の名前である。
 リオンは、年端も行かぬその少女の、異様に大人びた口調を咎めるでも、不審に思うでもなく。
「ええ……すべては、この書物に書いてある通り」
 そう、囁いた。
 リオンの言葉に、少女の笑みはますます凄艶さを増し、周囲を包む闇がいよいよ深まっていく。
「ここまではすべてが手筈どおり。私の揃えた役者たちが、上手く自分たちの役を演じてくれるといいのですが」
 期待を込めた口調は、しかしまったく揺るがぬ確信に満ちている。
 そんな彼女を、不思議な色の瞳で見つめながらリオンが小首を傾げた。
「……すべては、貴女の“プラン”通り、なのでしょう?」

 少女がリオンを振り仰ぐ。
 はっきりと見えていたはずの表情が、なぜかいまだけは暗黒の翳に隠されて見えなかった。

「ええ。この私 ――― “プランナー”の名にかけて」

 少女 ――― 都築京香の姿が、その言葉だけを残して掻き消える。
 その後を追うようにしてリオンの気配が失われると、その空間には闇と黴の匂いだけが残されたのだった ―――


(続く)

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