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当ページでは、 橋爪大三郎大澤真幸 による『 ふしぎなキリスト教 }』(講談社現代新書)に記述されている、 単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤り を扱う。

2012年7月18日現在、 130個以上の誤りが挙げられている が、まだ未完成。なおこの誤りの数は 明らかな誤りのみをカウントしたもの であり、 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。

※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
  • 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。 「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。
  • 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。 真面目な文系研究者に失礼。
  • 関連する研究をしている人々の 努力と業績を一切無視して講釈 するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
  • p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。

キリスト新聞2011年10月22日2面に掲載された橋爪大三郎氏のインタビュー記事を引用しておく。

――インターネット上では、事実誤認という声もあるが。
橋爪:この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。
――では、どういうものとして捉えてほしいのですか。
橋爪:漢字に楷書・行書・草書があるでしょ。この本は言わば草書体なんです。草書体の字に向かって、画数が違うとか点が省略されているとか言ってもしょうがない。そういうものなんだから。じゃあ、草書体はいい加減か?私はこの本はこの本で実に精密にできていると思う。数学みたいに精密なものなの。ただその表現が漫才みたいなの。/飲み屋で酔っ払って話している二人組みたいじゃないかって言っている人がいた。そういうふうに仕上げてあります。だからそう楽しんでくれていいんだけど、でも言っていることは、よそに書いていないことで、しかも精密なことが書いてある。/論文にしたければ、どの1ページから、論文が何本も書けます。そういうふうに思う人は、クロウトのひと、もの書きの人です。そういう人には概して評判がよろしい。

つまり橋爪氏は「間違いを少し書いてしまった」のではなく、「ハナから間違いを回避しようとしていない」。自分の生み出す本に品質保証をしないと宣言しているも同然。


歴史に関する事実誤認の記述を断りなく訂正

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは
p41 「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」→「初代のサウル王は、北側にもつながりのあるベニヤミン族の出身だった」(6刷で変更) サウル王の属するベニヤミン族は北側ではなく南側に属する。そのために差し替えたのだろうが、どちらにせよ間違い。逆に、訂正のせいでより意味不明になっている
p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の 『レビ記 』に載っています」→『レビ記』を 『出エジプト記』 に訂正。なお、この訂正は正しい。 どの刷で訂正したか不明であるが、版を改めないにもかかわらず内容を訂正するのは、不適切であると思われる。講談社(及び日本の出版社)はこのようなことを一般的に行なっているのだろうか?

単純な事実に関する間違い

  • 目次
  • 歴史
  • 2 教会生活
  • 3 教会論
  • 4 聖書
   1 総論
   2 旧約
   3 新約その1 ・ 新約その2

歴史

当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)を参照

教会生活

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p67 「キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから」 根拠不明である。確かにイエスは隠れて祈るように命じたが(マタ6:5以下)、しかし右の動画に映っている人びとは祈っていないとでも言うのだろうか。

これでは、正教会の奉神礼、西方教会の典礼・礼拝、それをベースに発展した教会音楽が全く説明出来なくなる。それとも橋爪氏は「教会音楽は祈りでは無い」とでも認識しているのだろうか。

橋爪氏がどう「祈り」「教会音楽」を理解しようと自由であるが、少なくともキリスト教において一般的理解ではない独自説を「キリスト教では云々」として流布するのは問題あろう。
(正教会)Патриарх совершил литургию в Рождественск. cочельник

(カトリック教会)主の祈り(カトリック南山教会)

(プロテスタント)Behold the Glories of the Lamb.mp4

(非カルケドン派)قداس عيد الفصح في كاتدرائية مار افرام حلب-سورياSyriac Easter in aleppo
p67 大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 まず単純に過ぎる。少なくとも「 かくあらんことを(そうありますように) 」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、 「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」 となるのである)
「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。
なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。
Аминь(Энциклопедический Словарь Ф.А.Брокгауза и И.А.Ефрона)

CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Amen
p237 「聖餐式ですけれど、最初はほんとうに食事をしていたらしい。でもそれをすると、みなお腹を空かせてやってきて、教会の財政が大変なので、食事はやめになり、象徴的なパンとブドウ酒の儀式になった」 ・「ほんとうに食事をしていた」とは、恐らく、『コリントの信徒への手紙一』11章17節以下などを根拠としているのだろう。なるほど、パウロの時代には聖餐と愛餐の区別が曖昧であり、実際の食事(愛餐)と聖餐式が一続きで行われたと考えられる。更に、使徒教父文書の一つ『ディダケー』(100年頃)の9-10章の記述からも、愛餐と聖餐は一続きで行われていたと考えられる(10章1節「"満腹"した後」)。ギリシア教父・殉教者ユスティノスの『護教論』(150年頃)にも食事としての描写がある。この点で、「最初はほんとうに食事をしていた」とは、曖昧な表現であるにせよ、許容出来る表現であるかもしれない。しかし、「ほんとうの食事」が「象徴的な…儀式になった」という主張の根拠は不明。聖餐は、最初期に実際にどのように行われていたかは不明であるが(実際の食事の形をとるにせよ、それと連続して行われているにせよ、独立したものであるにせよ)、イエスによって命じられた、つまりそもそもの最初から象徴的な儀式である(1コリント11章23節以下及びマルコ福音書13章22節以下)。

・聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)はキリスト教にとって最も重要な儀式のひとつ。ただの食事ではない。キリストの受難と贖罪を記念する儀式であり、聖書にも記された儀式である。「食事の」記念ではない。もしかすると橋爪氏は愛餐(アガペーの食事)と聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)を同一視しているのかもしれない(そのような説があるなら、それを説明すべきである)。なお、聖餐論には世界史で習うレベルの話だけでも、主に実体変化・共在説・霊的臨在説・象徴説がある。「象徴」をそのような意味で定義するかによるが、ツヴィングリの時代まで、パンとぶどう酒を「象徴」のみと限定し、アナムネーシス(想起)に限定する考えはなかった。それまでは実体変化とする考えが主流だった。橋爪氏の所属するルーテル教会は象徴説を取らない。共在説である。そのために、ルターは多くの論争を戦った。プロテスタント内部に分裂も起こった。そういったことも知らないのだろうか? 
小林信雄「『ディダケー』における聖餐の祈り」『神學研究』 26, 109-144頁 CiNii PDF - オープンアクセス

小林信雄「マルコ福音書における供食物語 : 聖餐の起源との関わりにおいて 」『神學研究』 28, 19-55頁 CiNii PDF - オープンアクセス
CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Eucharist
日本福音ルーテル教会 ルーテル教会の信仰 
ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会 
正教会とは 日本正教会
Holy Mystery: A United Methodist Understanding of Holy Communion. (Cayle Carlton Fenton, 2006. p. 33)
p294 「(プロテスタントの教会に)カトリック教会の信徒がやってきても、聖餐にあずかれます。 逆もそうだと思う。 カトリックではプロテスタント信徒に対して聖体拝領を許可しない。それどころかプロテスタント内でも「他教派の人間に聖餐を許すかどうか」については議論が分かれるのが現状(特にバプテストにクローズドの傾向が顕著)。

1998年、当時の アメリカ大統領だったビル・クリントン(プロテスタント・バプテスト派)が南アフリカ訪問中にカトリック教会を訪れたとき、カトリックの聖体にあずかったため、論争となった こともある。Bil Clinton + Catholic + Communionなどのキーワードでネット検索すれば、当時の記事や論争などが大量にヒットします。「逆もそうだと思う」などと、軽々しく発言できる問題ではない。基本的な事実誤認。これで「世界がわかる」とは言えない。 逆に世界を誤解します。
Why Close Communion And Not Open Communion(By O. L. Hailey, D. D. Editor Arkansas Baptist Little Rock, Arkansas )

栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治――ワシントンからオバマまで』キリスト新聞社 2009年 p.216-217

New York Times "President Took Communion -- And Criticism" By JAMES BENNET Published: April 07, 1998


教会論

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p291 「カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠をもたない。ゆえに存在すべきでない。教会堂もなくてよい。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です」 「司祭や神父」は橋爪氏がこの本の他の箇所や、他の著書でも犯す間違い。「司祭」(職名)、「神父」(呼称)。これは別の例で言えば「教諭と先生」「代表取締役と社長」というようなもの。つまり橋爪氏は「司祭」が何か、「神父」が何か、の辞書的意味すら把握していない。

また、プロテスタントも礼典・教職、教会堂を持っているが、これらも聖書的根拠がプロテスタントによって示されている。

なお、「(カトリックの聖職者制度は)聖書に根拠をもたない」というのは、あくまでプロテスタントがカトリック教会を批判する際に言うものであるが、中立的観点からすれば、カトリック教会も教職制について根拠となる聖書箇所を挙げていることには言及しても良いのではないか(Ⅰペテロ 2:2、Ⅰテモテ 5:17ほか)。プロテスタントの一方的主張だけを「入門書」で書くのは、入門書としての役割を果たしているとは言えない。正教会にも聖職者制度があるが、これも同様に根拠として挙げられる聖書箇所がある(ピリピ 1:1。Ⅰテモテ 3:1 - 7ほか)。

概して他の箇所にも言えることだが、当該教派がどういう主張をしているか真摯に調べるという姿勢が決定的に橋爪氏には欠けている。
CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priesthood
CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priest
CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Hierarchy of the Early Church
Ecclesiastical Buildings
"The Orthodox Study Bible: Ancient Christianity Speaks to Today's World" p1612, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17)
八木谷涼子 東方正教会&ローマ・カトリック 聖職者対照表
八木谷涼子 教派いろいろ対照表 (『知って役立つキリスト教大研究』の巻末附録・9教派対照表 (p.362-381)の増補版)

聖書

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神学

当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)を参照

東方教会(正教会・非カルケドン派)

橋爪氏も大澤氏も、 正教については「皇帝教皇主義」と「言語による分裂」しか言及しておらず、以下指摘の通り、大枠でも「誤りしか書いて居ない」。0点である。
頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p256 「教会で何語を使うか。東方教会はギリシア語を」 4世紀のシリアの聖エフレム(東西両教会で聖人)、7世紀のシリアのイサアク(正教会で聖人)はシリア語で著述していた。 「東方=ギリシア語のみ」ではない。 St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)(シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)

Oriental Fathers: Syriac Literature
p256, p261 橋爪氏「 東方教会は、ヴェーバーのいう皇帝教皇主義 、すなわち政治的リーダーと教会のトップとが一致する体制をとったので」
大澤氏「ビザンツ帝国では、先ほど(橋爪氏が)おっしゃっていたように、教皇がすなわち皇帝であって」
皇帝と総主教は非兼任。そもそもビザンツに教皇は居ないし、「教皇不在⇒皇帝が兼任」という理解をしているのだとしたら、ただ知識と理解の不足。そもそも東方教会に「イエス・キリストに代わって一人が束ねて教導する教会」という教会論が無い。

教会が皇帝に抵抗したり阻止したりしたケースも歴史上複数あり、「『皇帝教皇主義』説は、西欧からの偏見」で片付けられるのが現代ビザンチン研究者の間での常識。世俗領域の、 非専門家向け・一般向けの世界史書籍(『山川世界史小辞典』p230, 2007)ですら、「(ビザンツの)皇帝教皇主義」は「不正確な説」扱い になっている。

そもそも東方教会に言及するのに、正教会のみならず現代ビザンツ学界までをも完全に無視して、なぜ事欠いてヴェーバーなのか。
久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』76頁 - 77頁

『山川世界史小辞典』p230, 2007
p257 ロシア語 を使うロシア正教会、 セルビア語 を使うセルビア正教会」 各独立正教会が成立する過程の文脈で語られているが、成立時の奉神礼用語はいずれも教会スラヴ語 。セルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀。今でもロシア正教会では教会スラヴ語が奉神礼で使われている。 Church Slavonic (The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th)
Reform of liturgical language in Russia (Serbian Orthodox Church, Official web site)
p257で橋爪氏が、p268で大澤氏が 「総主教座の 分裂 」の 要因を「使用言語」 としている そもそも「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」を普通「分裂」とは言わない。 正教会における独立正教会・自治正教会といった教会組織の関係には、「母教会」「子教会」という解り易い表現がある。子が母から自立することを「家族関係の分裂」とは言わない。なぜ「解り易い」表現を使わずに、わざわざ誤った記述で解り難くしているのか不明。

また(「分裂」の語彙を使わなかったとしても)言語の違いを「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」の要因とするのも根拠不明。
ブルガリア正教会もロシア正教会も教会スラヴ語を今でも使っているが、使用言語が同じでも全く別の組織を構成している。
上述の通りセルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀以降。セルビア総主教座は(途中廃止された時期もあったが)最初のものは14世紀に成立していてむしろ順序が逆。
独立正教会たるキプロス正教会は5世紀に独立しているが、ギリシャ語を今日まで使い続けている。

「使用言語の違い→総主教座の分裂」は当たらない。 本書全体に共通する特徴だが、ここでも間違いだらけの知識から間違いだらけの結論が導き出されている。

Old Church Slavonic language -- Britannica Online Encyclopedia

THE SERBIAN ORTHODOX CHURCH - A SHORT HISTORY

(Vladimir Vukašinović) Confrontation of Liturgical Theologies in Translations of Holy Liturgies into Serbian Language in the 20th Century(PDF)

知多半島の正教会の歴史

石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂
p281, p282 「理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない」「理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。」 理性(νους)が邪悪な想いと結びついた時には理性は神との交わり"παρρησία"を失うと指摘した表信者(証聖者)聖マクシモス(東西両教会で聖人)を完全に無視(理性が悪に傾く可能性をマクシモスは認識している)。
東西両教会についての違いは「皇帝教皇主義」と「使用言語」だ、くらいの認識しか橋爪氏にも大澤氏にもないから、そもそも理性についての認識で東西の間に差があるという教理関係の違いに一切踏み込めない。
西方はラテン語だが東方はギリシャ語だ(これもシリア語を考慮していない間違い)と色々論じているのに、語彙に含まれる概念差が神学の見解に反映されている蓋然性について全く考慮していない。
※ギリシャ語の"νους"(ヌース)は「心」「精神」「理性」と訳され多義的であり、ラテン語の"ratio"と一対一対応するものではない。ラテン語の"ratio"にはギリシャ語の"λογος"が対応するとする場合もある。いずれにせよ橋爪氏が「"νους"は考慮に入れず、あくまで"ratio"のみを考慮に入れた」のだとしたら、「西方教会では」もしくは「ラテン語圏では」の但し書きが必須であろう。
『哲学事典』p1074, p1462 - 1463, 1984 平凡社
加藤信朗『ギリシア哲学史』p18 - p19, 東京大学出版会 2001
『中世思想原典集成 (3)』p550, p556 上智大学中世思想研究所

西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント)

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p253 大澤「日本人がキリスト教についてイメージするときに、どちらかというと中心にあるのは、カトリックですね。」 こういうことを言う割には、聖餐論も聖職者制度も含めてほぼ一切ローマカトリックの考え方は紹介されず、「煉獄」「免罪符」を巡っても完全な誤りを述べている(293頁)。大澤氏も橋爪氏もカトリックについて真剣に調べた形跡が無い。
p292 「カトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正当な解釈でもない、根拠のあいまいな教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や 告解や七つの秘蹟 などを行ってきた。それらを、プロテスタントは認めません。」 まず単純に、 告解(ゆるしの秘跡)は、七つの秘蹟の一つ(告解の他に七つあるのではない) 。橋爪氏は用語一つ、辞典レベルの単純な語義すら確認していない。

そもそもこの個所の前後は、宗教改革の文脈で述べられているとはいえ、聖人崇拝(そもそもこの用語も間違い。後述)・煉獄・免罪符の販売・告解・七つの秘蹟につき、「聖書に書かれていない」「公会議の正当な解釈でもない」「根拠のあいまいな教会の伝承」と断言するのは、あまりに中立的な観点を無視し切っているとの誹りは免れまい。せめて 「 - カトリックでは聖書にも根拠があるとし、公会議で教理の確認をしていますが - 」「プロテスタントの視点から言えば」といった但し書きが、仮にも学者の書くものであれば必須であろう。

また、「崇拝」と「崇敬」に繊細な使い分けをカトリック教会が行い、少なくともカトリック教会自身は「聖人崇拝」はしておらず「聖人崇敬」をしていると自己規定していることは、カトリックに批判的なプロテスタントですらも、認識していることである。「カトリックは聖人崇拝をしている」というのは、プロテスタントからカトリックを批判する際の言い方であって、カトリック自身はあくまで聖人を「崇敬」していると考える(「これも細かい間違い」ではない、カトリックとプロテスタントとの間での重要な論点となってきたタームである)。

さらに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のうち、二つ(洗礼・聖餐)は、(理解が違うとはいえ)礼典(サクラメント)としてプロテスタントも認めているのだが、この文章ではサクラメントの考え方すらプロテスタント全てに存在しないかのように誤解を招きかねない。なお 橋爪氏の所属教派であるルター派も、二つ(洗礼・聖餐)は、礼典(サクラメント)として認めている。

このように、橋爪氏はカトリック教会の基本的な事柄を抑えていないばかりか、プロテスタントからの(それも著しく通俗的で誤りも含んだ)カトリック批判のみを紹介しており、学者が書く入門書としては許されない 偏向 も際立っている。
七つの秘蹟 — カトリック鹿児島司教区

CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Sacraments

尊者・福者・聖人(カトリック中央協議会)

What are the sacraments? - Evangelical Lutheran Church in America
p293 「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、(中略) 煉獄とか免罪符とかの教義は(カトリック教会から)すべてなくなった 煉獄の教えは現代カトリック教会にも健在。
免罪符についてはそもそも「贖宥状」「免償符」という用語を使わない時点で、カトリック教会における位置付けをおそらく橋爪氏は把握していないと思われる。「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」もの。

「免償」の教えも現代カトリック教会に健在。

ルターはちゃんと意味を解っていた上で、その意味の上で批判したのだが、カトリック教会はその批判に同意しなかった。他方、正教会には「赦罪の後の償い」の考え方が元来、無い。

つまり免償、煉獄を認めるか認めないかは、現代においてもなお「プロテスタント、カトリック、正教」の違いの代表例の一つなのだが、その「違いの代表例」が橋爪氏の中では宗教改革の時代に消滅しているらしい。
橋爪氏が「『免償符』は今のカトリックには無い」という意味にも取れる言葉で言ったのならまだ良かったのだが、ハッキリと「煉獄とか免罪符とかの 教義 は」と言ってしまっているので、単純に誤りある記述となってしまった。
なお、14刷では「煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど」が「免罪符の販売などもやめることにしたんだけど」と、訂正されていることも付言しておこう。
教皇ベネディクト十六世の254回目の一般謁見演説

第29回 「免罪符」のウソ尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」中学3年生のための哲学入門より)

正教会とは:日本正教会 The Orthodox Church in Japan

科学

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p309-315 大澤「自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。ぼくらが、今日、『自然科学』として理解しているような真理のシステムは、簡単にいえば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった『科学革命』以降のものだと考えてよいと思います。…そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者…は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした」
橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか」
大澤「同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」
橋爪「教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学的な考え方)を真剣に発展させて行きやすい」
「科学革命以降の知」が現代の自然科学的な考え方と同じであることが指摘され(310頁)、「 プロテスタントから 、自然科学的なものの考え方が出てきました」(313頁)と語られているが、その 「科学革命」がまさにローマ・カトリックの律修司祭であるコペルニクスから始まった 点で事実と異なっている(尤も、彼らが語る「科学革命」でどの研究者の定義する「科学革命」を指しているのか不明であるが。ここではバターフィールドの語る意味での科学革命を彼らが想定していると考え反論している)。
(データを掲載していないのだから、根拠不明であるが)科学者にプロテスタントが多いとの主張が仮に正しいとしても、ローマ・カトリックにも多くの優れた科学者がいて、科学の発展に貢献したことを橋爪氏も大澤氏も無視してしまっているのではないか。なるほど、本書は新書であるから単純化は避けられないが、「科学革命」の主要な担い手であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4人の内、2人、つまりコペルニクスとガリレイ(橋爪氏は後者を「科学革命の担い手だったと言ってよいと思います」と評価している)がローマ・カトリック信徒であったことには言及すべきであったと思われる。
更に、16世紀から17世紀における科学革命の担い手は「たいていプロテスタント」だった、とか、「カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学や数学)を真剣に発展させて行きやすい」、との主張は、何を根拠にして言っているのか不明である。たとえば、16-17世紀の科学者でありローマ・カトリックに属するキリスト者である、コペルニクスやガリレイ、マラン・メルセンヌ、デカルト、ピエール・ガッサンディ、パスカル、ニコラウス・ステノらによる科学に対する多大な貢献を考えてみよ。

キリスト教音楽

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p320 「教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それでグレゴリオ聖歌とかができたんですけど・・・」  問題外の記述。ミサ・礼典の意味はおろか、宗教音楽の歴史に対してまったく無知をさらけだしている。ユダヤ教の詩篇から歌っていたことは常識である。グレゴリオ聖歌の成立に関しても誤解以前の問題である CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Gregorian Chant
p321 「プロテスタントは、宗教音楽を簡素にし」 橋爪氏は ルター派の音楽家であるバッハ の、たとえばマタイ受難曲(これは聖金曜日の晩課のために書かれたものである!)を聞いたことが無いのだろうか。

「簡素にし」という表現で何を意味しているのか不明であるが、プロテスタントが宗教音楽を「飾り付けがなく、質素なものとした」という意味で語っているのであれば、特にルター派が音楽に与えた影響を捉えきれていない。
「この世紀(注。16世紀)後半になると、コラール編曲はさらに充実したものとなり、とくにイタリアの技法を同化したハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトリウス(一五七一ころ-一六二一)らは大規模な器楽伴奏つきコラールを作曲している。偏狭なカルヴァン派とは対比的に、ルター派の音楽に対する開かれた態度は、この後のドイツ音楽の発展にはかりしれない好ましい影響を与えることになり、次代のハインリヒ・シュッツやヨハン・セバスティアン・バッハらのすぐれた宗教音楽作品を生み出す土壌を用意することとなった」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2011年第2刷、195頁)
マタイ受難曲

皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』

キリスト教美術

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p321-322 「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」「プロテスタントの画家は仕方ないから静物画を描いたり、風景画を描いたりした」「絵画で風景画や風俗画,静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃」 まず「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」というのは中世初期のカトリック教会によるゲルマン人布教限定の説明。また、この説明では肖像画と宗教画を混同しており、プロテスタントは肖像画すら描けないことになる。また、静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃、とあるが逆である。西洋絵画のジャンルヒエラルキーが構築されたのは17世紀のフランス・アカデミーとするのが一般的。また,風景画というジャンルに至ってはそもそも誕生したのが16世紀以降で,ルネサンスの頃は宗教画との区別が存在していない。また、「宗教画」というカテゴリは当時なく、神話画など他の最高位に置かれたものを含めて「歴史画」である。また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメール(注。フェルメールは結婚を機会にカトリックとなったと主張する研究者もいる。Johannes Vermeer’s influence and inspirationessentialvermeer.com参照)など無数に存在する。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Ecclesiastical Art

静物画:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape

哲学

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p281 理性は 、人間の精神のうち神と同型である部分、具体的には、 数学・論理学のこと なんです」 典拠不明の珍説。『哲学事典』(p1462, 1984 平凡社)によれば、理性とは「 一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力 をいう」。

哲学事典を引かずとも、大辞泉に、一般的な語義、カント哲学における語義、ヘーゲル哲学における語義に至るまでが簡潔にまとめられて書かれている。 橋爪氏による独自珍説を読むよりも、一般向けの辞典を読んだ方がはるかに無難 であることが示されている。

カトリック教会においても理性につき「数学・論理学のこと」といった語義は与えていない。スコラ哲学においては理性の働きはintellectusとratioとに分類され、intellectusはギリシア語のノエシスもしくはヌース(νους)の意味に、ratioは論証的な 認識 という意味で用いられた。

※正教会においては理性について西方教会とは別の捉え方がされてきたことについては別項「東方教会」節において詳述してある。
大辞泉り‐せい【理性】

『哲学事典』p1462, 1984 平凡社

REASON (Lat. ratio, through French raison) (Originally appearing in Volume V22, Page 947 of the 1911 Encyclopedia Britannica)

CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Reason


言語

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p234-5 「イエスと十二人の弟子たちはヘブライ語(ないしは、昔の説だと、 ヘブライ語の方言であるアラム語 )を話していた」 イエスらがアラム語を話していた、というのは別に「昔の説」ではなく、現代でも多くの研究者が主張していることは、細かい指摘であるから置いておくにせよ、アラム語が「ヘブライ語の方言」であるとは誤り。ヘブライ語もアラム語も北西セム語派に属しているが、しかし前者は北西セム語派のカナン語群に、後者は北西セム語派のアラム語群に属する。従って、親戚関係にあるが、方言とは言えない。 左近義慈『ヒブル語入門』(新装版)教文館、2002年、p.2


キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、イスラームについての無理解)

当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)を参照

外部リンク