ふしぎなキリスト教 @ ウィキ

間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)

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fushiginakirisutokyo

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当ページでは、橋爪大三郎大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」容量オーバーになったため、他宗教篇を分割して作成。

2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。

当ページで指摘されている、仏教・神道・イスラムについての無知・無理解は、キリスト教についての無知・無理解と同程度の酷さがある。この惨状でキリスト教と他宗教を比較する事が可能なのか疑問。結論に合わせてそれぞれの宗教で教えられている内容、および単純な歴史的事実を捻じ曲げてしまっている場面があることも問題である。

※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
  • 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。
  • 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。
  • 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
  • p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。


キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、神道、イスラームについての無理解)

頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献
p63 仏教は、言ってみれば、唯物論です。 この台詞の後、「因果律」(死体のアミノ酸への分解、微生物に食われ、別の生命になるという、食物連鎖、生命循環)、「自然法則」があるだけで、誰かの意志があるわけではない、それが仏教の考え方であり、そうした法則を徹底的に認識することが仏教の理想であると、橋爪氏は述べる。

「唯物論」の定義にもよるが、基本的に仏教では「唯物論」として自分の見方を説明したりはしない(むしろ大概の場面で否定される)。仏教における「因果律」を「アミノ酸」など物質的な面だけに限定した上でのこの語り方は「仏教の見方」では有り得ないし、国語辞典レベルの誤り。こんな説明では、「唯物論」と「仏教」の区別が全く判らなくなる。そもそも橋爪氏も大澤氏も、仏教において「唯識」の用語があるということすら知らないのではないかと疑われる。

また、因果律を「食物連鎖」「生命循環」と同列に並べている辺りは、一般常識レベルの誤り。

つまり橋爪氏は、仏教も初歩的なレベルから碌に知らない。ふしぎな仏教理解ふしぎなキリスト教理解を並べて、二人でふしぎがっているのが本書である。
これからの寺のあり方と仏教のあるべき姿

仏教の世界観 -真言宗のお経- 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

道元の『学道用心集』を読む

【徹底研究】唯物論
p63-65 「神々は、それぞれ勝手なことを考えていますから、彼ら全員のまとまった意思などというものはない。これが、多神教。これでは、神との対話などできない相談だ。(中略)「ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから」「Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。 言うまでもないが神道、仏教、儒教にも祈りは存在する。

橋爪氏は独自の(キリスト教に限定して考えても、祈祷文を持つ教派に当て嵌めるには一部正しいものでしかない)勝手定義により、「この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。」と論じるが、この定義を認めたとしても問題がある。多神教についてたった二行で済ませて居るが、神道と言えば絶対に外せない言霊概念に一言も言及すらせずに「言葉によるコミュニケーションは不可能」としてしまうのは、「宗教社会学者」としていかがなものか?

橋爪氏による勝手定義自体にも無理があり、日本語「いのる」(語義:神仏に請い願う)の語源には諸説(「斎宣」「忌宣」「接頭語イ+ノリ(宣)」「息宣」)あるが、いずれも「Godとの不断のコミュニケーション」のみを意味する言葉として使われてきた歴史は確認出来ない。
神社本庁 祝詞について

韓国の宗教の歴史(KBS WORLD)

前田 富祺 (編集)『日本語源大辞典』p141 小学館 (2005/2/26)
p273 大澤「イスラム教は、誰がムハンマドの後継者かがかなりはっきりしている。だんだん時間が経過すると、真の後継者が誰なのか、意見が分かれてしまうわけですが、少なくとも最初のうちは一義的に決まっていて、この点でもイスラム教はあいまいさがない。」 第4代正統ハリーファ(カリフ)アリーが暗殺されたのが661年。アリー系のイマーム:フサイン・イブン・アリーが殺されたのが680年(カルバラーの戦い)。この時代の抗争が、今に至るまでイスラームにおけるスンナ派とシーア派という二大潮流の原因になっている。いずれの前提も高校世界史レベル

大澤氏は「だんだん時間が経過すると」意見が分かれたというが、ウマイヤ家とアリー系の間で後継者の地位を巡る血で血を洗う抗争があったこの年間は、ムハンマドの死(632年)から50年と経っていない。50年と経たずに後継者を主張する者同士が殺し合う状態を、「後継者がかなりはっきりしている」と表現するのは妥当ではないだろう。

大澤氏は「キリスト教には明確な後継者が居ない」とし、キリスト教よりもイスラムの方が後継者がはっきりしているという文脈で引用部を述べているのだが、キリスト教は少なくともイエスの死から50年足らずのうちに後継者争いで殺し合うような事はしていない。

ここの問題点は二つ。まず「イスラムの方がキリスト教より合理的で解り易い」という結論ありきであり、その為には前提となる歴史的事実を一切無視する(もしくは知らない・調べない)こと。二点目は、本書の他の部分でも言えることだが、年数・年代を碌に確認せずに「しばらく」や「だんだん時が経って」といった曖昧な表現を平気で使ってしまっていること。

こうして読者は、スンナ派とシーア派に分かれているイスラムの対立の原因を理解することなく、イラン、イラク情勢も誤解させられることとなる。

※「カルバラーの戦い」については「基本中の基本用語」とまでは言えない、との指摘がされたので補足しておくと、確かに山川の世界史B教科書にも世界史B用語集にも載っておらず、「カルバラーの戦い」は用語として「基本レベル」ではない。ただし2005年度センター試験問題には「カルバラー」の地名がフサインの死んだ場所としてシーア派住民の聖地となっている文脈に登場しており、「シーア派」の正答を要求する出題がなされている。シーア派が預言者の後継者を巡ってスンナ派と争った人々であることは、このセンター試験問題に簡潔にまとめられている。「イスラームでは後継者がはっきりしている」などといった認識が一体どのような前提から導き出されるのか「ふしぎ」である。
Battle of Karbalāʾ

2005年度センター試験【世界史B】問題
p276 「イスラム教徒が考えることは、まず、これはクルアーンに書いてあるか、スンナに書いてあるか、イスラム法的に正しいか」 「スンナ」という文書は無い。スンナとは、アラビア語では「慣行」「実践」といった意味の普通名詞であるが、イスラムにおいては特にハディース(預言者の言行の言い伝え)から導き出されるムハンマドの慣行を指すことがある(但しハディースとスンナの関係については、厳密にはイスラム内で議論百出する)。
日本語で「慣行にこう書いてある」という言い方は出来ないのと同じ位奇妙な文章。
右に挙げた参考文献の一つは同じ講談社現代新書だが、橋爪氏も大澤氏も同じ現代新書から出た同書は読んでいない模様。
Hadith and Sunnah - Two Different Concepts

The Meaning of “Sunna” in the Qur’an
小杉泰『イスラームとは何か』(講談社現代新書)122頁、163頁、ほか
p312 「日本では工事をするのに必ず地鎮祭をするけれど、昔だったらそんなことをするぐらいなら、工事はしなかったんじゃないか。」 最古の地鎮祭の記述は日本書紀にある。地鎮祭後に工事という流れには、相当長い歴史がある。百歩譲って(橋爪氏はそのようなことをここで述べていないが)仮に地鎮祭が一般に普及したのは江戸時代とされることを意識した台詞だとしても、「工事はしなかったんじゃないか。」は完全に意味不明。開墾、都の造営が古くから広く日本でも行われている歴史的事実を思い起こせば十分だろう。なお、日本書紀にある最古の地鎮祭(とこしずめのまつり)の記述とは、藤原京造営時のものであり、当然大規模な工事のものである。

つまり地鎮祭も工事も両方古くから日本で行われている。「~じゃないか。」といった憶測で出鱈目な入門書を書くのは学者としての責任が問われる。

なお橋爪氏は同じ頁で、捕鯨と鯨油の照明利用をキリスト教徒限定のものと述べているが、日本でも鯨油は行灯や農薬に使われていた。橋爪氏は自説に都合よく宗教・歴史を捻じ曲げているが、その対象はキリスト教に限らず、日本史・神道にも及んでいる。こうして橋爪氏の著作はキリスト教に対する誤解のみならず、(細かい問題でではなく大局的に)神道への誤解も招くのである。
地鎮祭の歴史 - 西野神社 社務日誌

地鎮祭のご案内 相模原市の神社 亀ヶ池八幡宮

外部リンク



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