代わりに俺が重たい本を持ってやってカウンターまで行き、役員にまとめて受け渡す。
横で長門がゴソゴソとポケットからサイフを取り出した。そして、その中からは青色の図書館の貸し出しカードが出てきた。

「覚えてる?」
「なにを?」
「これ…」

そう言って長門は指で挟んでいたそのカードを、ほんのわずかにヒラヒラと左右に振ってみせる。
それで俺は彼女が何を言いたいのかということにようやく思い当った。
そうか。そういえばカードは。
本当は本を読んだまま動こうとしない長門をどうにかするために俺が作ってやったものだけど、
おまえの中では違うんだったな。
今の俺にはその記憶はまったくないんだけれど。

「…悪い、覚えてないんだ」
「…そう」
「すまん」
「いいの」

嘘をついて覚えていると言ってやるのは簡単なことだったけれど、なぜかそれはやっちゃいけないことのような気がした。
それにきっと長門なら、俺の嘘なんかあっさりと簡単に見破るだろう。
そしたらもっと傷つけてしまうことになってしまうかもしれない。それはダメだ。
こいつにはできるだけ本音で接していたい。

 ウイイイイン…

本を鞄にしまってから外へと出た。外はもう暗くなりかけていて、さっきまでの暑さも多少和らいでいる。風も心地よい。
上を見上げると、かすかにだけど星が見えていた。

「これからどうする?」
「戻る」
「え、戻るってまさか学校にか?」
「コクリ」

「おいおい嘘だろ? またあの学校までの坂を上るのってのか? そりゃ勘弁だ。今日のところはもう終わりにしておこうぜ」
「でも…」
「でも?」
「鍵」
「ああ。うーん、大丈夫だよきっと。特に取られるような物も置いてないしさ。本だって学校のやつだろ?」
「……」

その時突然、何の前触れもなしに正面を向いて歩いていた長門が立ち止まり、その足を動かすことを止めた。
そして石になったかのように固まったまま動かなくなってしまった。

「? どうした?」
「…あの人…」
「え、あの人? どこ? 誰?」
「……」


「…付き合ってた…人…」

……

「…は!?」
「あれ…」
「あ、あれって…」

ガーーン

「長門…お、おまえ…」

付き合ってたヤツ…いるのか…

「……」

へこんだ。それも強烈に。
打ちのめされた。
昂ぶっていた気持ちが急速にしぼんでいくのがわかった。
奈落の底へと蹴り落とされてゴロゴロと転げ落ちていくた亡者のような気分だ。

こいつが男と付き合うなんてことは絶対ないと思っていた…
そしてなんとなくだけど…それは勝手な妄想だったけれど、
長門は、俺のことを待っていてくれたんじゃないかというような気がしていた。

どうやら本当にただの思い上がりだったらしい。

「…どれ?」
「あそこ…」

…まあ、しかたないか。
これだけ可愛いくて性格のいい子なんだ。他の野郎どもだってそりゃあ放っておくはずもないだろう。当たり前だ。
そうして言い寄ってきた大勢の中の誰かが、長門の心を的確に射止めたのだとしても、それはおかしくも不思議なことでもなんでもない。

…うん。
よかった。そうだよ。よかったじゃないか。いいことじゃん。
一人ぼっちでずっと部室の中に籠っているのなんかよりは、そりゃ健康的でずっといいことだ。
たとえそれが俺の知らないやつなんだとしても、関係ないさ。
よかったな。おまえだって普通に人と付き合うことができるんだな。

…そう簡単に納得することはとてもできそうになかった。
くそ、どこのどいつだ長門をたぶらかしやがったのは。
一目その顔を見てやろうと思い、俺は長門が指差す方を獲物を探す獣のごとく形相で見回した。

「…んん?」

だが、見据えた視線の先、それらしい男の姿はどこにもない。
見えるのは長い黒髪を風になびかせて歩く女の後姿だけだ。

「…あそこ? 俺にはどう見ても女しかいないように…」

…はっ

「な、長門っおまえまさか…」
「あなたが」

「…あなたが…付き合ってた…」
「…え?」

お…
俺?

その時ようやく、昨日の部室での長門との会話がふと、頭の中で蘇った。

「…付き合っている人も、いるみたいだった…」

思い出した。
俺が付き合っていた8組の女。あれがそいつのことか。
そうか。長門が誰かと付き合ってたというわけじゃなかったんだな。
横にいる長門にバレないように、俺は大きく安堵の息を吐いて胸を撫で下ろした。

俺達とは大きな道路を挟んだ向こう側の道をゆっくりとした足取りで歩く女。
まったく。この俺なんかと付き合おうってのはいったいどんな趣味の女なんだ。

「…く…」

…だけど…
ちょっと顔見てみたい。

前まで付き合ってた女がいったいどんな顔をしているのか。
それくらい確かめてみたくなるのが人情ってもんだろう?
やたらと背が高くて細いということだけはここから見ただけでもわかるのだが。

…こっち向け。振り向けっ。

そう何度も心の中で強く念じたが、その思いはどうやらむこうまでは届かなかったようだ。
一度もこっちに顔を見せることなく、その元俺の彼女とかいうやつは曲がり角も向こうへ消えて見えなくなってしまった。

…あーあ。

「…やっぱり…」
「?」

「今日は帰る」
「え? あ…そ、そうか。うん」

長門は無言でUターンして、今来た道を再び歩きだした。

「あ、ちょ、ちょっと長門」

しかたないので俺も慌ててそれを追いかける。

心なしか、前を歩く長門のスピードがさっきまでよりも少し足早な感じがした。


「……」

…無言。
な、なんか沈黙が重い…
重いというより、空気が肌に刺さってくると言ったほうがいいだろうか。
さっきまでは全然何も感じなかったのに。

物言わぬ長門が発している空気が、明らかにさっきまでの穏やかなものとは違っていた。

…お、怒ってんのかな、もしかして…

「じゃあ」

分かれ道に着くと、長門は俺が進もうとしている道とは別の、横道の方に向かって歩き出した。
おかしい。そっちはたしか長門のマンションがある方向じゃないぞ。まだ曲がるのところはけっこう先のはずだ。
なのにそっちに行くということは、やっぱり…

俺といっしょにはいたくないってことだろうな。

「…ああ。また明日な」

俺も、今日はもうこれ以上いっしょにいない方がいいような気がした。
暗くなった夜道を長門一人で歩かせるのは多少心配だっけど、もうあいつの家までいくらもないから、まあ問題はないだろう。

「じゃあなっ」

ポツリと点いた薄明かりの外灯の下の長門に向かって、もう一度声をかけてから大きく手を振った。
長門もその声に反応してこっちを振り向き、俺に小さく手を振り返した。
手を振ったと言うよりは、胸の辺りまで上げただけという感じだったが。
白色の明かりに照らし出された長門の顔は、どこかもの寂しそうだった。

「ふう…」

…明日には機嫌直しててくれればいいけど。


「おいっ!!」

翌朝、教室へ着いたばかりの俺のむなぐらを、谷口がいきなり凄い力で掴みあげた。

「な、なんだよ」
「おまえ昨日の放課後、6組の長門といっしょに歩いてたらしいな!!」
「あ…」

なんて噂が広まるのが早い学校だ。
こいつの情報網の広さが異常なだけかもしれないが。

「う、うん。まあな」
「がーーっ!! なんだおまえ!! もしかして付き合ってんのか!?」
「ちげーよ。俺、文芸部に入ったからさ。それでいっしょなんだよ」
「あ!?」

「おまえ文芸部って……たしかその長門一人しかいない部活じゃねえか」
「うん」
「なんだそりゃ! おまえそれ下心見え見えじゃねーかよ!」
「なっ…そんなつもりじゃねーよ!」
「じゃ、なんでいきなり文芸部なんかに入るんだよ」
「…本が読んでみたかったんだよ」

谷口の言葉に、俺は必死になって反論を展開した。
…あながち間違いというわけでもないから、どうにも言い訳臭くなってしまう。

「ふーん…ま、べつにいいけどよ。しかし、変な趣味してんなおまえ」
「え、なんで?」
「だってよ、メチャクチャ地味じゃねーかあいつ。顔が整ってんのは認めるけどよ。
 なんか暗そうだし、いっしょにいてもつまんねーだろ? 俺には無理だなぁ」
「な、なんだとこらてめえ!!」

 ガタンッ!

「わっ、な、なんだよ!」
「おまえなぁ、今のもういっぺん言ってみろ。ぶん殴るぞ!」
「わーっ、わかったわかった。悪かったっ」
「ふん」

谷口の肩を掴んでいた手を離して、俺は席に座りなおした。

「…ふふん。キョンよ。どうやらおまえ本気みたいだな」
「……」
「ケケケ、いいことじゃねえか。だけど意外だぜ、おまえにロリ属性があるなんてさ」
「あ?」
「だっておまえ、前によく言ってただろ。俺は年上か大人っぽい女しか無理だって。
 あんな小さい子供みたいな女におまえが惚れるとはなー」

どうやらこっちの俺と今の俺では、人格まで微妙にずれてしまっているらしい。
年上の女がいいなんて……思ったことは何度もあるけど、別にそれだけと特定したことなど一度もない。

「ほら、おまえが前まで付き合ってた女、いるだろ。あれがおまえの理想系なんじゃなかったのか」
「!!」

そうか。
何でこんなことに気づかなかったんだ。
こいつに聞けばいいんじゃないか。

「た、谷口っ」
「ん?」
「あ、あのさ。なんかすごい変なこと言うんだけど…」
「…? なんだいきなり。告白か? 俺に」
「いや」

「悪いんだが、俺が付き合ってたっていう女のところまで…ちょっと連れて行ってくれないか」
「はあ?」


「ほら、あそこにいるだろ」

谷口が入り口の前から、教室の後方辺りを指差して言う。
だけど俺にはそれがどこを指しているのかさっぱり見当もつかない。

「え、どこ? どこだよ」
「そこだよそこっ! 窓際の後ろから三番目!! いるだろっ!!」
「……」
「ったく…最近のおまえはどうもおかしいな。自分の彼女の顔忘れるなんてよ。鳥か? おまえは」

窓際の、後ろから三番目…
そして、あの長い黒髪…

見えた。

「…嘘だろ」

スラッと伸びた、白く長い足。
あの朝比奈さんに勝るとも劣らないような豊満な胸。
そして、どこか高校生離れしたような雰囲気をかもし出す、端整な顔立ち。

「絶対嘘だ」

あんなモデルみたいなのと俺が付き合っていただって?
冗談言うな。釣り合いが取れなさすぎる。

「嘘言ってどうすんだよ。おまえ当事者なんだから自分でわかるだろ」
「だっ、だっておまえ、あんな美人と俺じゃあまりにも…」
「なんだそりゃ? 新手の自慢か? くっそー腹立つなーテメーっ」
「……」
「まあ、たしかに美人だよなぁ」

「で、声かけていかなくていいのか」
「え?」
「べつにケンカして別れたってわけじゃないんだから、一言くらい挨拶してやっていったらどうだ?」
「そうなのか?」
「だから俺に聞くなって!」
「……」

「…いや、いい。かけなくて」

名前も知らないしな。

「ふーん…そうか。まあいいけどよ。俺はてっきりおまえ、ヨリを戻しにきたのかと思っちゃったぜ。まったくこの外道め」
「おまえに言われたくねー」

…しかし。
本当に信じられん。
まさかこの俺があんな可愛い子とね…

なんだ。やるじゃん、俺。

 ガヤガヤガヤガヤ

「…ふう」

放課後、帰宅する生徒や部活へ足を急がせる生徒達でごった返しになっている廊下を、
俺は掻き分けるようにしてゆっくりと進んでいった。

あの時、去年の12月20日、エンターキーを押さなかった世界。
つまり、何の奇妙な出来事も起こらない、平穏な世界。
…古泉やハルヒ達とは、何の繋がりも関係もない世界。

そっちを選んでさえいれば、俺にもあんなに可愛い彼女ができたってことだよなぁ。

そんなことをボンヤリと頭の中で考えていると、いつのまにか文芸部の部室の前に立っていた。

「…何考えてんだよ」

失敗したとでも言う気なのか? おまえは。それとも羨ましいとでも?

「まさか」

そんなこと言えるはずがない。何が可愛い彼女だ。
そんなものよりもずっとずっと大切なものを、おまえは手に入れたんじゃないか。

「そうさ」

SOS団は俺の宝だ。
古泉に、朝比奈さんに、ハルヒに、そして長門。
俺にとってみんなは、何よりもかけがえの無い、一番大切な仲間なんだ。

そうじゃないんだ。

「……」

俺が…この世界を放棄した時の、一番の心残り。
いや。本当のところ、今でもまだ少し、迷ってる。

長門。

俺、おまえと別れたくない。
ずっといっしょににいたい。
いてやりたい。
可愛い彼女なんてどうでもいい。そんなことどうでもいいんだ。

「俺が好きなのは、長門なんだ」


「…え?」

い…
今…

「俺、何て言った?」

好きって…言ったのか?

長門のことを?
俺が。

「……」


…そうか。
そうだったんだな。
無意識に口から出てくれたおかげで、ようやくはっきりと気が付くことができたよ。

あいつのことを思って、時々胸に走る痛みや。
いっしょにいると、なんだか幸せで落ち着いた気分になれることや。
もっとあいつの喜んでいるところや、笑った顔を見てみたいなんて…

好きという感情以外の何ものでもない。
これを好きと言わずにいったい何を好きと言うんだ。

長門…俺。
おまえのことが好きだ。

 トントン

「…はい」

ノックをすると、中からか細い声が聞こえてきた。
昨日よりもなんだか力の無い返事だった。

「俺だ。入っていいか?」

「…どうぞ」
一瞬だけ間があってから、もう一度返事が返ってきた。

「ん、それじゃ」

 ガチャリ

扉を開けると、長門は昨日と同じ体勢でやはり本を読んでいた。

「よっ」

俺が軽いノリでそう声をかけると、長門はふっと顔を上げて一瞬だけこっちを見た。
そして一瞥だけしてまた持っている本に視線を落とした。

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最終更新:2007年04月23日 19:00