部室の前に到着して、急いでドアノブを回そうとした自分の手を、俺はギリギリのところで思いとどめた。
そうだ。忘れるな。今ここはSOS団の部室なんかじゃない。そんな部活は存在しない。
ここは……文芸部の部室なんだ。
「ふう……」
一度ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ちつかせてから、目の前のドアを見据え直す。
今回は……いきなり襲いかかるようなマネはしないようにしないと。
握りしめた拳の中で汗がジンワリと噴き出てくるのがわかった。
もう一度大きく深呼吸をする。
……くそ…緊張するな……
だけどこんなところで立ち止まってるわけにはいかないんだ。
トントン
小さく二回、ノックする。返事はない。
だが俺はかまわずに金色の冷たいノブを回して、ドアを開いた。
「長門……」
「……」
長門はやっぱり、そこにいた。
パイプ椅子に座って、本をその両手に持って。いつも通りの格好で。
窓から射す夕日が反射して、うまく表情を見ることができない。だけど、どうやらメガネはかけているようだった。
「……」
その瞬間。半年前のあのできことが……
いや、あの時の長門の姿が、フラッシュバックのように鮮明な映像となって俺の頭の中で蘇った。
「……」
無理やり掴んだ俺の腕の中で、怯えるように震えていたあの時の表情。
顔を薄っすらと赤く染めながらも、ひたすら本を読み続けていたこと。
俺があいつの家から帰ろうとした時、服を掴んで引き止めてくれたこと。
白紙のまま返した入部届けを見て、泣き出しそうになっていた時の表情。
……そして……
一度も見たことのなかった、あの笑顔……
「なが……」
俺がもう一度その名前を呼ぼうとした時、長門はすっと静かな動作で椅子から立ち上がった。
「な……」
「どうして……」
「……あなたが、ここに……」
そう言って長門が一歩前へと踏み出したおかげで、俺はようやく彼女の表情を確認することができた。
あの時と同じだ。口がわずかに半開き。そして、必至に冷静さを保とうとしているようだが、明らかに驚いているのがその顔に表れている。
こんな表情……本当の世界の、宇宙人のあいつなら、絶対に見せることはない。
それを見て確信した。間違いない。この長門は……
あいつのバグ……いや違う。そう、あいつの願望、本心が作り出した、あの時のあの世界の長門だ。
ホントにわずかな……たったの三日間だったけど、共に過ごした。
宇宙人でもなければ万能でもない、ちょっとシャイな、ごく一般的な文芸部員の女の子。
「……」
……なぜだろう。胸が熱くなった。
たまらず涙が頬を伝った。
「……」
止まらなかった。
「くっ……ズズッ…」
拭っても拭っても、決壊したダムのような勢いで涙は勢いよく溢れ出てくる。
どうして……こんなに涙が出てくるんだ?
「…あ…ははは……ごっ、ごめん…」
……そう。
懐かしかったから……いや、嬉しかったから。
俺は……もう一度会いたかったんだ。
長門に……いや、この子に。
あの時エンターキーを押して、俺は元の世界へ帰ることを願った。だけど……
また、会いたかったんだ……
「グズッ……ズズッ…」
窓から差し込む夕日を後ろに背負う長門の姿が、ユラユラと霞んで見えた。
「……どうして……」
「え…」
「どうして泣いているの……」
「あっ、わ、悪い…」
俺は慌てて上を向き、目頭を親指と人差し指で押さえて、必死に零れ落ちる涙を抑えた。
「……」
…少しの間、オレンジ色に染められて幻想的な雰囲気をかもし出している部室の中に、沈黙が落ちた。
上を向いて嗚咽をこらえる男に、それをボンヤリ眺める女の子。はたから見れば、それはなんとも奇妙な光景だったことだろう。
「……ふうーっ……」
…どうやら、なんとか収まったようだった。
「……悪くない」
「え?」
「泣くこと……」
「あ……」
「別に……悪くない……」
長門がポツリと呟いたのをなんのことかと思ったが、どうやら30秒ほど前の俺の言葉への返事だったらしい。
「はは…」
それでまた少し嬉しくなった。なんとも長門らしい返答だ。
こっちの。
「あ、あのさ長門…」
「……」
「俺のこと…覚えてくれてるか?」
「……」
「……覚えてる」
「そ、そっか……」
「……」
「はあ……ははは。よかった。ちょっとだけ安心したよ」
べつに事態が好転したわけではない。帰るための手がかりが見つかったわけでもない。
だけど、それなのに……長門が覚えていると言ってくれたことは、地獄の淵にいた俺の手を、強く握って這い上げてくれたような気持ちにさせてくれた。
こいつには……なんの力もないのに……
それなのに、どんな時だって長門の言葉は、俺に勇気を与えてくれる……
それはこっちの世界だろうがあっちの世界だろうが、変わらない……
ドクン…
「……」
…なんなんだろう。この気持ちは。
わからない……けど、今は深く考えないことに…しておこう。
「……もう」
「?」
「もう……来ないかと思ってた」
「え? どうして?」
「……」
もう来ないって?
どうしてそんなことを言うんだろう。
俺のことを知っているってことは、あの事件があってからこの半年あまりの間だって、俺は存在していたということになる。よな?
そしてきっと、俺はあのエンターキーを押した瞬間に、こっちの自分に……そう、
こっちのやつらから見たらいつもの俺へと戻ったんだと思う。この世界が存在を続けているわけなのだから。
そしたらきっと、あの場にいたハルヒ達とまたSOS団を校外にだろうが作りあげて、苦労しながらも面白おかしくやっているんじゃないかと思っていた。
そしてそこには、きっとここにいる長門の姿もあるものだと……
「な、なあ。なんでもう来ないと思ってたなんて言うんだ? 俺、もしかして、おまえと会ったの久し振りか?」
俺の言葉に長門は困惑したような、訳がわからないといったような表情をあの時と同じように見せていたが、
しばらくの間を置いてから、コクリと小さく頷いた。
「な、なんでだ? す、スマン。あの……できたら、去年の12月20日、あの日──」
「…あの、俺がお前に入部届けを返したあと、あの後、いったい何があったか、教えてくれないか…」
「……」
長門は…俺が元の世界へ帰った日から今日までのことを、ゆっくりと静かな口調で詳しく教えてくれた。
あの後、パソコンのエンターキーを押した途端、俺はまるで糸が切れた人形のように派手にぶっ倒れたらしい。
だが、しばらくしてから保健室の布団の中で目を覚ました。…どうやらそこまで運んでくれたのは長門のようなのだが…
そして、キョロキョロと辺りを見回したあと、長門に一言礼を言って、恥ずかしそうに帰って行ったそうだ。
そしてそれからというもの、文芸部の部室へは顔すら出していないらしい。
ハルヒも、長門が俺を見舞い終わってから部室に帰ってきたら、どこにもいなかった。無論、古泉も、朝比奈さんも。
そいつらももうそれ以来やってくることはなかったそうだ。
なんじゃそりゃ。
「……」
……何考えてんだよ……こっちの世界の俺は……
いや、ハルヒもだ。あれだけ大騒ぎしていたのに、ちょっと面倒なことになったから顔すら出さないってのか? ふざけんなよ。
くそっ。こんな寂しそうな長門を一人にして放っておくなんて……死ね、俺。
「……それから」
「それから?」
「…か…」
「……付き合っている人も、いるみたいだった……」
……
「……は?」
「…付き合ってる人…」
「……」
「な、なんだって?」
「……」
……つ……
……付き合ってる人って……つまり……
……彼女って、ことか……
俺が?
「…えー……あー、うーん……」
「?」
「スマン。あの…なんか変な質問なんだが……いや、変な質問なのは最初っからだが…」
「…俺はいったい、誰と付き合っていたんだ?」
「……」
長門はなぜかうつむくと、消え入りそうなくらい小さな声で言った。
「…あたしの知らない人…」
「え?」
「元…8組の人…」
「……」
元……8組……?
誰だろう? 8組なんて一回も行ったことがないぞ。一人の名前も顔も思い出せない。
クラス構成は9組以外は特に変わってはなかったはず……ってことは、こっちの俺だって同じはずだ。
ちくしょう。それなのに俺はそんなクラスの子とうまくやったってことなのか。信じられん。
「……キレイな人だった……」
「……」
……ますます信じられん。
このクソ野郎。長門のことを放っておいて何自分だけヨロシクやってやがんだ。
覚えのないことで自分自身に腹を立てるというのは何とも妙な感覚だったが、とにかく、むかついた。
「でも……」
「…今は、知らない」
…もうとっくに別れていることを、本気で望む。
じゃないと明日からますます面倒なことになってしまいそうだ。
……しかし……
「……」
……自分自身のことを聞くなんて、まるで病院から抜け出してきた記憶喪失患者みたいにわけのわからないことを俺はしているのに……
それでも長門は…何も聞かないんだな……
それがとても不思議だった。
…もしかしたら。
こいつは…今までの、こっちの世界の俺と今ここにいる俺は別人で…
そして、あの三日間をいっしょに過ごした俺こそが、今ここにいる俺と同一人物だと言うことに気付いているのかもしれない。
…気付くはずはない。
なぜなら、今ここにいる長門は、空間移動なんかとはまったく無縁の普通の女の子だからだ。
しかしそれでもこいつなら……長門なら、もしかすると感覚的に気付いてくれているのかもしれない。
長門なら。
……もしホントにそうなら、大変助かるんだが……
「あっそうだ!」
そこまで考えて、俺はようやく重大なことを思い出した。
ここに、この部室に俺がやって来たもう一つの理由。
現実の世界からの、長門の助け。
ガタッ!
俺は大きく飛び込むように踏み出して、窓際にたたずんでいた長門との距離を一気に縮めた。
「…!!」
…しまった。眼前の長門が怯えたような顔をしている。
またあの時のように襲われると思ったんだろうか。そんなつもりじゃないんだ。
「…長門」
「……」
「…パソコン、借りていいか?」
「え……」
「あ……うん……」
長門は思い出したように一度だけ頷いた。
「悪い」
相も変わらず古臭い旧型パソコンの電源を急いで入れる。
やっぱり変わってないな。SOS団の新型より、三世代ほど前の代物だ。
古泉がこれを見たときにアンティークものだと言っていたっけ。
ウイイイイイイイインン…
パソコンはガタガタと嫌な音を上げながら、イライラする、まるで牧場にいる牛のようなのんびりとしたスピードで、ゆっくりゆっくりと起動を始めた。
俺を怒らせるためにわざとやっているんじゃないかと言いたくなってしまうような遅さだ。
「あっ待って」
ようやくパソコンが完全に立ち上がった時、俺が掴んでいたマウスを横から手を出してきた長門が奪った。
そしてパソコンとは正反対のもの凄いスピードで、デスクトップに出しっぱなしになっていたフォルダをマイボックスにしまいこんでいた。
「……」
…前も同じことやってたな。
「…何しまったんだ?」
「……」
「…自分で書いた小説?」
そう俺が言った瞬間、長門の顔がまるで勢いよく火がついたように、ボッと赤くなった。
「…違う」
少し荒い息を吐きながら、真っ赤な顔をして必死に否定する長門。
そりゃ、さすがにバレバレだよ。嘘を見抜くことは得意なんだ。
「嘘だ」
「…嘘じゃない」
「小説だろ?」
「…違う」
「嘘つけよ~」
「…嘘じゃない」
同じ言い訳を繰り返す長門を見て、ああ、やっぱりこっちの長門は普通の女の子なんだなと改めて思った。
それも、とびっきりにかわいい。
「なあ、今度読ませてくれよ。前から読んでみたかったんだ。頼む」
「……」
「…わかった」
「ホントか? 約束だぞ!?」
「約束する」
俺は笑った。長門も恥ずかしそうだったが、どこか嬉しそうな表情だった。
「!!」
その瞬間、視界の横で、起動していたパソコンの画面が急に真っ暗なものへと変わった。
停止した? …いや、違う。
この画面は。
何秒かの間があってから、その真っ暗な画面の中に白色の文字で、自動的にタイプが始まった。
YUKI・N>
やっぱり…予想した通り。
長門。そっちでもおまえは見ていてくれたんだな。ホントに頼りになるヤツだ。
この画面と文字になるのも何度目のことだろう。俺にとってはすっかりお馴染みだから驚くこともない。
それにしてももうヒントなんて、今回は随分気前がいいじゃないか。
>そこはパラレルワールド
「パラレルワールド…?」
パラレルワールド。
ついさっき、耳にした言葉だった。さっきもさっき、今日の昼休みだ。
あっちの朝比奈さんがご飯を食べながらも、熱く語ってくれた。
>あの時あなたが、別のキーを選択した世界の未来。
「別のキー…」
別のキーってのはもしかして、脱出プログラム作動させる時の、エンターキーとは違うキーってことか。
…俺が選んだのとは別の、宇宙人も未来人も超能力者も、そして神様もどきみたいなヤツもいない、平穏な世界。
朝比奈さんの長い講釈をぼんやりと思いだした。
「キョン君にもありますよね? 二者択一の選択を迫られて、どちらかを選んだということが。
そしてその選択の結果を悔やんだこともありませんか? 間違ったーっとか、ああこうしていればなあ、とか。
そんな失敗や成功を経て辿り着いたのが今のわたしたちの世界というわけなんですけど、実は別の方を選んだ場合の未来も、ちゃんと存在してるんです」
「ほうほう」
「間違ったほうの世界、正しかったほうの世界。世界は、何通りも存在してるんです。あたしたちがいる世界だけが現実じゃない。わかりますか?」
…なるほどね。
ここは、俺がエンターキーを押さなかった世界。
どういうわけか押したはずの俺が、押さなかった方の世界に迷い込んじまったってわけか。
黙って考え込んでいると、再びスクリーンにタイプが始まった。
>さらにその世界の中でも、何通りにも枝分かれする未来の一つ。
「その世界で、何通りにも…?」
どういうことだろう。俺は考えた。
それは、俺がこの世界を選択するエンターキーを押した後から、その後の未来のことだろうか。
その後の世界も、何通りにも分かれているということだろうか。
つまりもしかしたら、平穏な中でも俺達はあの時集まったハルヒや古泉や朝比奈さん、そして長門たちと、SOS団を組んで活動していた未来もあるということだろうか。
たとえ神様や宇宙人や未来人や超能力者がいなくても。
そしてそれは、俺がエンターキーを押す直前に、泣き出しそうな表情の長門の見て、そうなって欲しいと強く願った未来だった。
そうだ。きっとあるはずだ。そんな未来だって。
今の一人ぼっちの長門は…あまりにも寂しすぎる。
こんな世界だけがたった一つの現実なんて、そんなことあっていいはずがない。朝比奈さんだって言っていたじゃないか。
「……」
横を向いて、長門の顔を見た。茫然とした、無垢な表情だった。
…そうだ。あるさ。きっと。
「…でも」
俺にはどうしてもわからなかった。
カタカタカタカタ
>どうして俺は、こっちの世界にまたやってきちまたんだ?
直接キーボードを叩いて文字を入力した。これがこっちから自分の意思を長門に伝える唯一の連絡方法だ。
>前回はおまえの意思で俺をこの世界に送った。でも、今回は違うだろ? なぜだ?
何秒かしてから再び返信がくる。
>わたしにもわからない。
わからない…? おまえが作った世界じゃないか。
カタカタカタカタ
>どういうことだ?
>わからない。でも、帰還方法はある。
「…え…!?」
>あるのか!? 戻る方法が?
>ある。ただし少し時間がかかる。
「時間…」
時間ってなんだ。まさか五年とか十年とか言うんじゃないだろうな。
>どれくらい?
>一週間。その時またそこいて。あなたを連れ戻す。
「一週間…」
俺がそう小さく呟いた途端、今まで写し出されていた文字が画面の上から全て消えた。どうやら本当に電源が落ちてしまったらしい。
いくらキーボードを叩いても、スクリーンは真っ黒のままだった。
「一週間か…」
うん。
べつにたいした時間じゃない。この前だって、一瞬に感じたけど三日もここにいたんだから。
よかった。あいつが…長門が断言したんだ。絶対間違いはないだろう。今回は安心してもよさそうだ。
「YUKI・N…」
「?」
「…わたしの名前…」
横で長門が青い顔をしながら俺に聞いた。
「…どういうこと?」
「え、あ、ああ、うん。これにはその…もの凄ーい深い事情があって…」
「深い事情…?」
「ああ。深いっていうかめんどくさいっていうか…で、でも、もう大丈夫。全然なんてことなかったからさ。はははは」
「……」
そう言うと、それ以上長門は何も追求してこようとはしなかった。
そのサッパリしたところがこいつのいいところだ。こっちでも、あっちでも。
「さーて」
俺は緊張の解けた身体を、ゆっくりと椅子から持ち上げた。
窓からもう半分沈んだ夕日を眺め見る。辺りの色はいつのまにか紫色へと変わっていた。
「どーすっかなー」
うんと背伸びしてから、間抜けに言った。
一週間の猶予。俺はその時間を、いったいどうやって過ごすべきなのだろう。
どうやって過ごせと言うのだろう。
…決まってるさ。
「あ、あのさ長門」
一言言ってから、俺は長門の目を見つめた。
すると長門は、たったそれだけのことでまた薄っすらと頬を赤く染め、下を向いて黙り込んでしまった。
「あの…」
「…何?」
「…入部届け、あるか?」
「…!」
俺がそう言うと、うつむいていた顔を長門はゆっくりと上にあげた。
そして今度は向こうから、俺の目を力強く見つめてきた。
「…ある」
「悪い。また一枚、くんないかな?」
「待って」
そう言うと、勢いよく傍の机の中をあさり始めた。
その様子を眺めながらふと横の棚を見ると、白紙の入部届けの束がキレイに揃えて置かれているのを俺は見つけた。
「あ、長門。ここに…」
「あった」
顔を上げた長門がその手に持っていたのは、クシャクシャの、白紙の入部届けだった。
「…そんなに必死に探してくれたのは嬉しいけど、ここにほら、新しいやつがたくさん──」
「あなたの」
「…え?」
そう言って長門が俺の傍へとテコテコと駆け寄ってきた。そして、すっと俺にそのクシャクシャの入部届けを差し出した。
それを見て、俺の胸に衝撃が走った。
「…まさか、これ」
「あなたの」
…この入部届け…
「…あの時の…」
コクリ
「……」
信じられなかった。
半年も前の、何も書かれていない入部届け。
しかもあの時俺が乱暴にポケットにしまったから、それでこんなにクシャクシャになってしまっているんだろう。
そんなものを、今まで大事に取っておいてくれたなんて…
「…な…」
「長門…」
長門は再び、照れたような顔をして下を向いた。
ズキンッ
その時、俺の胸に中に小さな、でも鋭く尖った痛みが走った。
俺を…こんな冷たい俺のことを、ずっとずっと待ってくれていた、目の前で俯うつむく小さな彼女。
…今すぐ抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。
「……っ」
だけど俺は、自分の腕をを強く握って、ぐっとそれを抑え込んだ。
「…えと」
「?」
「あ、ありがと長門。あと…ついでに、何か書くもんあるかな?」
「ある」
そう言うと、長門は制服のポケットからゴソゴソと鉛筆を取り出して俺に渡してくれた。
「さ、サンキュ。えーっと、それじゃあ……はい、これ!」
「……」
「前に一回破棄しちゃったけど…今回はちゃんと正式に、文芸部に入部したい」
「……」
俺は一つ息を吐いてから、静かに続きの言葉を言った。
「許可して…」
「…くれますか?」
「……」
…一瞬の沈黙。
だけどすぐに、その沈黙を破って彼女は言ったんだ。
そう。ただ言ったわけじゃない。薄っすらとだったけど、あれは、確かに…
「認めましょう」
──それは
ずっと……俺が求めていたものだった。
エンターキーを押して、元の世界へ帰ってきて、たった一つ。ずっと、ずっと悔やんでいた。
もう一度だけ、見てみたかった。
長門の、優しい笑顔だった。
──翌日。
「ふわぁ…」
重たい身体を布団から起こした俺は、眠い目を擦りながら自分の部屋の中をキョロキョロと見回してみた。
「……」
特に変わったところはない。
いつも通りの、何のおもしろみもない俺の部屋だ。
「…夢…」
…だったのか? もしかして。
だとしたら、随分リアルな夢もあったもんだ。こんなにリアルな夢はハルヒと閉鎖空間に閉じ込められた時くらいのもんだ。
まああれはどうやら夢じゃなかったようだが。
「おはよ~キョンくん~」
「ん…おはよ」
廊下で俺のことを滑るように追い抜いて行った妹が笑って朝の挨拶をした。
「…うーむ」
家族に特に変わった様子はない。猫のシャミにも別段変化はない。
前来た時もそうだったけど。
それにしても、これじゃ本当にまた別の世界にやってきてしまったのかよくわからないな…
そう思っていたのが、焼けるような気温のなか教室にたどり着いくと、そんな甘い考えは通用しないのだとさっそく思い知らされた。
「あら、おはようキョン君」
「…おはよう」
ハルヒの代わりに朝倉がいるのだ。
「昨日もちょっと変なこと言ってたけど、今日は大丈夫?」
「大丈夫だよ」
…ふう。
こいつの顔を見ると、心底疲れる。
どうやら殺されかけたとかそういうのを抜きにしても、どうやらこいつとは根本から合わないようだ。
「しっかしよ~昨日の地震にはホントびっくりしたよなぁ」
横の席で谷口がいつものおちゃらけた口調で言った。本当にびっくりしたようにはとても思えない言い方だ。
だが…しかし。
「そう」
「?」
地震だ。
「……」
昨日学校から自宅に帰ってきたあとも、俺は眠らずにいろいろこの世界にやってきてしまった原因を考えた。
あの時長門が作り上げた世界の、その未来。このパラレルワールドへ俺が再び飛ばされた理由を。
やはり、あの地震が直接的な原因だとしか考えられない。
あの直後に俺は朝比奈さんにビンタで吹っ飛ばされ、教室からはハルヒが消えた。
そして代わりのポジションに朝倉がいて、長門はかわいらしい女の子になってしまっていた。
きっとあの時の巨大地震の影響で、世界が微妙におかしくなったんだ。
「うーん…」
「なんだキョンさっきからよぉ。便秘かぁ?」
「違げーよっ」
「昨日もなんかおかしかったもんねー。今日は大丈夫なの?」
「朝倉と同んなじセリフ言うな」
…ま、
考えてもしかたがないか。どうせ、どうやったって俺のこのチンケな出来の頭じゃ、理解できる範疇を超えた問題なんだろう。
それに、今回は前回と違って、考えたり悩んだりする必要も特にないんだ。
必ず迎えが来ると決まっているのだから。
「だけどあんだけでかい地震でよくこのボロ校舎がぶっ潰れなかったよな。ちょっと感心したぜ」
俺が考えたことと同じことを谷口は言った。どうやら思うことは皆一緒のようだ。
「というより、学校だけじゃなく他のどこでも物理的な被害はなかったみたいだよ。変な話だよね、いいことだけどさ」
「うーん不思議だなぁ」
確かにそりゃ不思議だ。
俺がこっちに飛ばされてきたことともしかしたら関係あるかもしれない。
…と思ったが、それ以上深く考え込んでしまう前に、自分の思考回路をストップさせることにた。
いいんだよ、そんなことは。どうでも。
キーンコーンカーンコーン
放課後の始まりを告げるチャイムが鳴った。
何も考えていなかったから、今日も授業が終わるのが大変早かった。
「…そ」
今の俺は、そんなことを考えてる余裕なんてどこにもないんだよ。
コンコン
見慣れた、いつもなら何の遠慮もなしに開けるはずのドアを、軽い力でノックする。
「はい」
中から小さな声で返事が返ってきた。
「俺だ。入っていいか?」
「…どうぞ」
「ん、それじゃ」
ガチャリ…
長門は、今日もいつも通りに窓際に置かれたパイプ椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいた。
「…こんにちわ」
「…こんにちは」
俺がそう挨拶をすると、彼女はこっちを向いてから、やっぱり赤い顔でうつむいて、でも、どこか嬉しそうな声で、俺にも挨拶を返してくれた。
だけどたったそれだけのことで、俺の心は心底胸いっぱいになるほどの充実感で満たされた。
だって、俺がいた世界の長門がこんな風に優しく返事を返してくれるなどということは、どう間違ったってありえないから。
その挨拶の一つ一つが、俺にとっては信じられないくらいの希少価値があるものなんだ。
そうだ。
俺が今、何よりもしなくてはいけないこと。
それは、このたった一人の健気な文芸部員の心の隙間を、少しでもいいから埋めてやることだ。
寂しさを紛らわせてやることだ。
たったの一週間。本当にたったそれだけの短い間だ。けれど…
それでもいい。
俺ができるだけのことは、全てやってやる。
「…あの」
「ん?」
長門は開いていた本に栞を挟んで閉じてから、それを机の上に置くと、モジモジとした様子で言った。
「今日…図書館に…」
「あ、ああ。図書館行くのか? うん、いいよ、行こう行こう」
「ええ」
長門の表情が、たったそれだけでパッと明るいものへと変わる。
…それを見て、俺はようやく本当のことに気付いた。
「……」
…長門のために、とか、寂しさを紛らわせてあげる、とか…
かっこいいようなことを言っていたけど、本当は違うんだな。
俺はただ、こいつと、この世界の、普通の女の子の長門と、いっしょにいたいだけなんだ。
もう一度、いや何度だって、あの儚げで優しい笑顔を見てみたいと思っているんだ。
こいつの喜んでいるところが見たいんだ。
学校を出ると、陽は低くなり始めていたけれど、それでもじわっと肌に絡みつく蒸し熱い気温は未だに保たれたままだった。
そんな中を俺と長門とは二人並んで、例の地獄坂を、ゆっくりと歩て下っていく。
途中、二人の間にはまったくと言っていいほど会話はなかった。
だけど俺は、別にそんなことは別段気にもならなかった。なぜならそれは重苦しい、気まずいといった類の空気の沈黙ではなくて、
どこか落ち着いていて、なんと言ったらいいか、その場にいるだけで幸せを感じられるような沈黙だったからだ。
いっしょにいるだけで。
「…なに?」
「えっ? あ、いや、なんでも…」
い、いかん。ついうっとり見とれてしまっていた。
なんだがいっしょにいればいるほど、長門のことが可愛く見えてきてしまうような…
なんなんだ、いったい。
一時間と少しほど歩いて、ようやく見覚えのある図書館の前に俺たちは到着した。
そう。本など滅多に読まない俺だが、この図書館にだけは前にも一度来たことがある。それはハルヒ達SOS団全員で不思議探しをするために町へと出たとき。
クジ引きで長門とペアになった俺が暇つぶしをさせてあげるために、この図書館へと連れてきてあげたのだ。
「ふうー…」
中に足を踏み入れた途端、ちょうどよい涼しさのエアコンの風がふんわりと俺の身体を包み込んだ。
まるで天国へやってきてしまったのかと錯覚してしまうほどの気持ちよさだった。
「閉館までまだけっこう時間あるみたいだから、長門、ちょっと休もう…」
そう言って横を向いた時には、すでにそこに長門の姿はなかった。
「あ、あれっ?」
慌てて辺りを見回して探すと、すぐに見つかった。
彼女はこことは少し離れた場所の棚の前で、目をキラキラと輝かせながら本を手当たり次第に物色していた。
「…熱心ですねぇ」
そう呟いた自分の口調が、なんとなく古泉のようになってしまっていることに俺は気がついて、ちょっと愕然とした。
くそ…いつの間に。やっぱりいつもいっしょにいて話しをしていると、知らぬ間に影響を受けてきてしまうものなのかもしれない。
あいつみたいなしゃべり方になっちまうのか……なら、前髪ももっと伸ばした方がいいのかな?
だけど俺はなぜかそれが少しだけおかしくなって、ふふっと自嘲気味にかすかに笑ってしまった。
「しかたない…ちょっとソファで休んでるか…」
ツンツン
「ん…ムニャ…」
ツンツン
「んん…? あ…あ、あれっ?」
「起きて」
「おわっ!」
ふと気が付くと眼前に長門の顔があった。
「な、長門っおまえ何やって…!」
「もう閉館」
「え?」
そう言われて、慌てて振り向いて壁に掛けられている時計を見上げた。
本当だ。俺がソファに座ってからすでに一時間ほど経過してしまっている。いつの間にそんなに時間が経ったってんだ。
「す、すまん。ちょっと休むつもりがこんな熟睡しちゃって…」
「かまわない」
「もう、本はいいのか?」
「ええ」
そう言って、長門はその手に持っていた本をスッと俺の目の前に差し出してきた。
4冊の分厚い、なんとも難しそうなタイトルとカバーをした、まるで辞典のような本が俺の視界に飛び込んできた。
最終更新:2007年04月23日 18:56