仏教についての考察・学習

目次



内容


  • 帰依・信仰する先について
    • キリスト教
      • 個人→唯一神へ帰依・信仰する。
        • キリスト教にとって、キリストは媒介にすぎない。
    • 仏教
      • 個人→法(ダンマ)へ帰依・信仰する。
        • 仏教にとって、ブッダは法を説いた人。敬礼されるべきであるが、神ではない。

宗教名 媒介 信仰の最上対象 備考
仏教 ブッダ 初期仏教の時点では、法だったものが事大を下るに連れてブッダそのものを信仰対象にする流れも出る。ヒンズー教の影響もあって、最後期は多神教化した。
キリスト教 キリスト 唯一神
ユダヤ教 モーセ 唯一神
イスラム教 ムハンマド 唯一神
ヒンドゥー教 多神教

「この世で自らを島とし自らをたよりとして、他のものを頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな」

自分が死ぬことを嘆いてはいけない。生まれたものは必ず死ぬという運命を、なんびともまぬがれることは出来ない。無常の理、すなわち全てのものは変化してゆくものであるという真理は絶対である。しかし死ぬのはこの私の肉体である。それは朽ち果てるものである。真の生命は私が見出し、私が解いたり方である。それに人々が気づいて実践しているならば、そこに私は生きている。永遠の命である。

ブッダが亡くなったあとでは、何にたよったら良いのであろうか。ここで「自らに頼れ。法に頼れ」とブッダは教えるのである

p171-172

ブッダ物語 (岩波ジュニア新書)についてのalpha21164さんのレビュー - ブクログ
http://booklog.jp/users/alpha21164/archives/1/4005001718

どこぞの新興宗教の教祖や、カルトの代表者のようにわたしを礼拝せよ、とはいっていない。

絶対神について


彼は形而上学的な議論について、一切判断しない判断中止の思想を持っていた。ブッダは、人間の思考能力では解決できない問題を議論することは心の安らぎや悟りを得るためにはなんの意味もないとして、形而上学的なことがらについて無駄な議論をしないという立場を取っていたが、サンジャヤの思想はこれに近い。
p69

ブッダ物語 (岩波ジュニア新書)についてのalpha21164さんのレビュー - ブクログ
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苦しみを取り除き、涅槃を目指すのが仏教なのだから、横道にそれるようなことはしなかったのだろう。

また、無我を説くわけだから、
私、という存在がいないのであれば、絶対神もいると言わない。
私、という存在がないというのであれば、絶対神もいないとは言えない。
私、という存在がいないのであれば、いるともいないとも、その両方とも断定できない。

自分が存在しなければ、鏡に何も写らないように。


法について


■四聖諦■
①世の中は苦しみに満ちている
②苦しみの原因は己の執着である
③執着がなくなれば、苦しみも消える
④執着を消すための具体的行動が8つある。(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

■諸法無我■
人は生存欲を核とした自己を築くため執着が生まれるが、それは虚構にすぎない。この世は単なる縁起の重なり合い(空)で、人の生死もまたその中にある。

→自己や自己の所有物などない。

ブッダの人と思想 (NHKブックス)についてのoqo99980841さんのレビュー - ブクログ
http://booklog.jp/users/oqo99980841/archives/1/4140018356

一切の罪を犯さぬこと
善に至ること
心を浄化すること
これがブッダたちの教えである


戒律


在家信者向け

ブッダは信徒たちに向かって「人間としての道を実行するのに怠ってはならない戒めを守りなさい」と説いた。
仏教で説く戒めとは、悪を戒める4つの戒め(1-4)とそれ自体は悪ではないが悪を引き起こしやすい戒め(5)とのあわせて五戒である。
1.生き物を殺してはならない。
2.盗んではならない。
3.邪淫を行なってはならない。
4.偽りを語ってはならない。
5.酒を飲んではならない。(それ自体は悪ではないが悪を引き起こしやすい戒め(5))
仏教信者にとってはこの五戒を守ることがその入り口とされている。

p164

ブッダ物語 (岩波ジュニア新書)についてのalpha21164さんのレビュー - ブクログ

なぜ戒律を守る必要があるのかというと、ニルヴァーナ(涅槃)を目指すため。
決して良きことをなすこと字体が目的ではない。手段を目的化してはならない。

仏教学者の解釈


自己以外の何ものをも自己とはみなさないことによって到達されるのである。それは他の面から考察すると現在において生きることなのである。
原始仏教の思想はたしかにニヒリズムと呼ばれても良い一面の性格がある。しかしそれは自己をまともに凝視することにより自己以外の一切の価値を否定することを通じて真実の自己の実現を目指し社会性の獲得とともにやがて慈悲の実践に向かうことになったのである。

原始仏教レビューより

生存欲さえ砕くような無我

自我がなくなる。自分というものが存在しなくなる

”我がない”のだから、自分と他人を隔てるような壁がなくなる。

慈悲の実践

無我は、理論ではなくて、まさしく実践の課題として阿含経には説かれ、無我の実現を阿含経は反復して強調する。そして、その実践・実現を担い果たすのは、ほかならぬ主体であり、自己そのものである。その自己ー主体が、執着にうごめいている自我を否定し、開放し、超越する。阿含経に説かれる無我説とは、まさに以上なようなものである、ということが出来る。
自己は、そのまま主体性であり、行為の主体であり、実践の当体であり、責任の所在であり、そして仏教の術語で言えば業の統括者として、常に明らかであり、自らに関わる一切を負う。そのような「自己」の在り方を、「ダンマパダ」は多くの詩句に説く。

"実に、自己こそが、自己の、主。自己こそが、自己の、拠りどころ"

バウッダ―仏教,三枝充悳 中村元 の感想 - ブクログ http://booklog.jp/item/1/4094600809

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最終更新:2012年05月29日 18:17