2013.06.01 男たちの手稲山 その一


  • 参加者 Hiura / Uenishi / Seguchi
  • 天気 快晴


















【登りとは】
何故登るのか。眺望やダウンヒルの爽快感を求めて、等々の答えが予想される問いではあるが、しかし答えはこれらのいずれでも無いと私は考える。帰ってシャワーを浴びた後のビールが旨いとか、そういう事では無いのである。
登りは言わば目的そのものであって手段ではあり得ない。トレーニングとかそういう事ではなく、ただ登るために我々は登るのである。何故登るのか。そこに山があるから。否、そこに自身の限界を見るためである。筋繊維が断裂する音を聞き、呼吸器を限りなく痛めつけ、我々は限界を知る。辛く苦しく何が何だか分からなくなって頭が真っ白になって、ただペダルを回すための一個の機械と化す、その領域にこそ登りの本質があり、言わば偏執狂的な倒錯した快感があるのである。最先端に近付くこと、エッジの上を進み続ける事こそが登りの過程である。慢性的な低酸素状態に置かれるために起こる一種のトランス状態、座禅と同じ事が起こっているというのも真実の一側面ではあると思われる。
登り続ける中、我々は限りなくシンプルになっていく。自身から様々なものが削ぎ落とされていく。決して体重的な意味では無い。煩雑な思考や情報はシャットアウトされ、我々は一個の思想であり概念に近づいていくのである。ギリギリの際を進み続ける中に明確になっていく思想、私の場合はただ一つ、克服せよ、である。
自分に打ち勝て、などという話ではなく、エッジに一歩近づく恐怖と恍惚を克服する、それである。限りなく最先端に近付いていく行為である。そのためにこそ我々はただ一個の機械でなくてはならない。この感覚こそが登りの中毒性であり、より強い刺激を求め続ける登り好き達なのである。満足感を求めているのではなく、むしろ飢餓感の為に我々は登る。登りは好きだが、取り分け得意という訳ではない、という言い訳である。
ちなみに私が帰って昼飯と共に飲むのは「ブルガリア のむヨーグルト」である。理由は、何となく体に良さそうだから。

最終更新:2013年06月01日 17:56