狼は生きろ、豚は死ね
「豚に飼い慣らされるが本望と言う訳か。滑稽だな」
家族を失い、身寄りの亡い少年が生きる為に最下層区域を根城としたのは、さほど珍しい話でもない。
だが、かような場所に堕ちてなお、悪徳に身を染めずにいられたのは、上記の台詞を発したとあるパン屋の女主人の存在が過分に影響を及ぼしている。
あらゆる社会的正義、庇護から逃げ出した少年が、自身の力のみで生きていくには現実は厳しく、また周囲の目にとっても少年はあまりにも無力で、
己が欲望を満たす贄以外の何者でもなかった。
その日、少年ははじめて殺意を実行した。
見目を買われ、甘言に惑わされ、男婦として陵辱されるその間際。
手にしたナイフは憎悪の体現であり、肉を刺す感触は快楽そのものだった。
あっけない。とてもあっけない出来事。
どこを刺せば命に届くのか判らぬまま刺した。自身を癒す為に刺した。みずからを潤す為に刺した。
ひとしきり哄笑を発し、なにもかもに疲れた。いまだ傷のない胸にナイフを突き立てようとしたその時だった。
閉ざされていた筈の、いまは開かれた扉に背をもたせた女が上記の台詞を発したのは。
困惑に陥った少年が選んだ結論は目撃者の封殺だった。
しかし、いかにナイフを振るえど刃は女をかすめない。ほどなくして少年は女に抑え込まれた。
弱者の辿る、当たり前の末路に少年は晒された。
女は問うた。貴様は負け犬か、と。
少年は吠えた。違う、俺は負け犬ではない、と。
女は問うた。弱者を慰みとし、その屍肉を食むのが貴様の本懐か、と。
少年は吠えた。その道理を突きつけたのは誰か、と。
女は説いた。他でもない、それが貴様自身の選択なのだろう? と。
少年の手からナイフが落ちた。
女は戒めを解き、震える少年の指に血に濡れたナイフをふたたび握らせた。
女の凜とした声が少年の耳を刺す。
己が裡にある信仰を問え。そしてそれに従え。
貴様は豚か、狼か。
少年の身を穢そうとした男は刺された痛みにうずくまり、震えていた。救命を請う嘆願だけをその口は紡いでいた。
男が纏うていた尊厳は、その体を為していなかった。それは弱者以外の何者でもなかった。
その姿を見ても、もうなにも疼かなかった。
あれほどまでに脳髄を痺れさせていた支配欲さえ、いまではネズミの鳴き声よりもなお小さな響きにしか感じられなかった。
少年の手からナイフが滑り落ちた。それを拾う必要はないことを、少年は心のどこかで自覚する……。
ダーカー襲撃の際にはエイダストとして現場に馳せ参じるかたわら、現在は女主人のはからいで彼女が経営するパン屋にて生計を立てている。
生来の器用さはここでも遺憾なく発揮され、客足は上々、宅配先の娼館でも見事に可愛がられ、おかげで売り上げは右肩上り。
女主人も良い拾いモノをしたとご満悦。
もっとも、思い込みの強さが災いし、トラブルも絶えないのが玉に瑕、であるが。
なお、余談であるが少年が刺したこの男も、現在は少年の働くパン屋の常連として足しげく通っていると言う。
理由は言わずもがな。
その事実に辟易とする少年であるが、この男がある界隈では非常に名の知れた富豪であり、少年を通じて、かれが所属するエイダストの強力なスポンサー
となるのだから、まったく世の中、どう転ぶかわからないものである。
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