書評1

すうがく徒の本棚(1)
書名 レナード・M・ワプナー『バナッハ=タルスキの逆説 豆と太陽は同じ大きさ?』(佐藤かおり+佐藤宏樹訳, 青土社2009年)
評者 ゼルプスト殿下

〜1〜

20世紀数学の生んだ数々の「病的な例」のうちでも、その反直観的な内容でとくに広く知られるバナッハ=タルスキの定理を、その前提となる知識、周辺の話題や、哲学的な含意まで含めて解説する快著だ。

バナッハ=タルスキの定理というのはどういうものかと言うと、(1) 球体を有限個の部分集合に分割して、各部分集合を(回転と平行移動によって)移動させる操作によって、同じ半径の2個の球体へと写像することができる。つまり、ひとつのボールを分解して組み立て直すことで、同じ大きさのボールを二つ作れる。 (2) 三次元空間の有界で内点をもつ二つの集合は、(1)と同様の意味において互いに「同等分割合同」である。つまり、豆粒くらいの大きさの球体を有限個の部品にまで分解して組み立て直すことで、太陽くらいの大きさの図形を作ることだってできる。

直観的にはまったく受け入れがたいこの二つの定理は、それでもきちんと証明された事実である。ただし、ボールを実際にどのような部分集合に分割するか、その様子を図示することはできない。バナッハ=タルスキの定理は、具体例を構成できない純然たる存在定理であり、選択公理を用いないでは証明できない。

俺としては、幾何学的・直観的な「図形」概念を「ユークリッド空間の点集合」という抽象的な概念に置きかえる現代数学の方法論に対するひとつの警鐘として、バナッハ=タルスキの定理をとらえるべきだろうと思う。そうした議論も含めて、くわしくはぜひこの『バナッハ=タルスキの逆説』を読んでもらうよう、つよくお勧めしたい。理科系の大学生が根気よく読めば、この驚くべき定理がきちんと理解できるはずだ。驚くべきといえば、一見して寄り道と見えるような細部にもあとでちゃんと出番があるところなど、著者のプレゼンテーションもまた驚くべき巧みさだ。バナッハ=タルスキの定理とその証明を理解するために必要なデータが過不足なく提示されており、厳密さを損うことなく、ほぼ初等的に証明が完了する。

〜2〜

いずれ数学の書物を著すことを志す俺としては、この本から学ぶべきところ甚大と言わねばならん。とはいえ、少々気がかりなところがないでもない。

翻訳に関連した疑問点を、原書を取り寄せて確認してみた。次の箇所だ(訳書p.70):

   私たちには、私たちの中にあるたえまない叫び声が聴こえる---問題が存在する。その解を見つけよ。---あなたは純粋な理由でそれを見つけることができる。
   なぜなら、数学において諸法実相(無知)は存在しないからだ。

これは1900年にパリで開催された第2回国際数学者会議におけるヒルベルトの講演からの引用なのだが、最後の一文は、なんだか意味不明になっている。「諸法実相(無知)」という語があてられているのは「イグノラビムス (ignorabimus)」という語だ。原書(Leonard M. Wapner, «The Pea and the Sun---A Mathematical Paradox», A K Peters, Ltd., 2005.)p.43から引用しよう:

   We hear within us the perpetual call: There is the problem. Seek its solution. You can find it by pure reason, for in mathematics there is no ignorabimus.

イグノラビムスはドイツの生理学・生物物理者デュボアレーモン(Emil du Bois-Reymond, 1818-1896)のキーワードで、「わたしたちは知りえない」を意味するラテン語だ。デュボアレーモンは、生物の行動や生体の構造をいかに詳細に分析してみたところで生命や感覚の本質を科学は解明できないだろうと主張して唯物主義的科学論の支配する19世紀末ヨーロッパの学界に不可知論の一石を投じて「イグノラビムス論争」を引き起したという。だとすればヒルベルトの言葉がこのイグノラビムス論争を踏まえていることは明らかだ。ヒルベルトがなぜ数学にイグノラビムスがないと言ったのか、その真意はわからないけれども、数学が«純粋な理由»ではなくて«純粋理性» (pure reason)の活動で、物的自然の秩序のありようとは独立しているから、と言いたかったのかもしれない。それはともかく、この ignorabimus が「諸法実相(無知)」と訳されていることに、俺としてはどうしても納得がいかない。

諸法実相というのは仏教用語だ。辞書には

   「あらゆる事物•現象がそのまま真実の姿であるということ。」(大辞泉)
   「すべての事物・現象がそのまま真実の姿をあらわしているということ。」(大辞林)

とある。「臨済録」に

   「随処に主となれば立つ処みな真なり。」

とあるように、学的・客観的な分別知によらず現在あるがままの自分になりきって体験する世界こそが真実であるというのが仏教の教えであり「諸法実相」はこの思想のスローガンといえる。

残る「無知」については多言すまい。

科学的認識にはどこまで押し進めても突破できない方法論的な限界があると主張するイグノラビムスは「不可知」である。これは知ってしかるべきものを知らない単なる「無知」ではないし、ましてやすべての思慮分別に先立つありのままの姿に真理をみる「諸法実相」とはまったく違う。訳者がこの三つを同列に並べてしまったのは迂闊だったとしか言いようがない。

〜3〜

そのほかに、数学上のミスも、残念ながら皆無というわけではない。たとえば、デデキント流の無限集合の定義の二つのバージョン

   “集合 S から S の真部分集合への単射が存在するときに, S を無限集合と呼ぶ”
   “自然数の全体の集合 ℕ から集合 S への単射が存在するときに, S を無限集合と呼ぶ”

の同値性が選択公理に依存しているという見解(訳書150ページ)は正しくない。 ワプナーは, 真部分集合への単射の存在から, 入れ子になっていく真部分集合の列 \[ S\supset S_1\supset S_2\supset \cdots \] が得られるから, 選択公理によって \(s_1\in S-S-1\), \(s_2\in S_1-S_2\), 等々を選びなさい, と言っている。いわゆる「入れ子細工」(nest) を「巣ごもり的」と訳してしまっている(訳書p.147)のは、まあ御愛嬌だ。だがここでの選択公理の使用は避けられる。 \(f\colon S\to S\) が単射でその値域 \(f[S]\)\(S\) 全体でないとすると, \(s_0\in S-f[S]\) をみたす \(s_0\) がとれ, あとは \(g(0)=s0\), \(g(n+1)=f(g(n))\), \((n=0,1,2,\ldots)\) によって再帰的に写像 \(g\colon \mathbb{N}\to S\) を定めれば, これは単射である。ここで「選ぶ」必要があるのは最初の一個つまり \(s_0\) だけだから、選択公理は必要ない。本当に選択公理が必要になるのは、この二つの定義の同値性ではなく、「自然数であらわされる要素の個数がないという意味で, 有限でない集合」という消極的な無限集合の定義とそれらとの同値性である。

〜4〜

このような翻訳上の不手際や些細な数学的な思い違いはあるものの、この本には学ぶべきところが大いにある。バナッハ=タルスキの定理について書いた日本語の本のうち最良のものとして推薦してよいと思う。

日本語で読めて証明まで書いてある本として、他には、上江洲忠弘『集合論・入門-無限への誘い』(遊星社)の第7章、志賀浩二『無限からの光芒』(日本評論社)の第2部、砂田利一『新版 バナッハ-タルスキーのパラドックス』(岩波科学ライブラリーNo.165)などがある。証明はどれか一つで読めばよいが、それぞれの著者がこの定理をめぐっていかなる見解を述べているか、比較してみてほしい。

先に述べたとおり、第3〜5章の数学の部分は賞賛に値するものだし、周辺的な話題や身近なパズルから問題の核心をあぶり出す第2章や第6章以降も楽しく興味深い。

〜5〜

第1章の歴史認識の部分にもおおいに好奇心を刺激される。

ゲオルク・カントールによって19世紀の終りごろ (Grundlagen 1883 / Beiträge 1895&1897) に連続体問題と整列可能性問題が提示され、1904年にエルンスト・ツェルメロが選択公理を提案して、整列可能性問題をそこへ帰着させる。1908年にはツェルメロが集合論の最初の公理系を提案する。選択公理を用いて、ステファン・バナッハとアルフレート・タルスキが球体の分割についてのバナッハ=タルスキの定理を証明し、1924年に Fundamenta Mathematicae 誌上で発表した。その後、連続体仮説と選択公理の無矛盾性(ZF集合論からの反証不可能性)をクルト・ゲーデルが1938年に、独立性(ZF集合論からの証明不可能性)をポール・コーエンが1963年に証明する。以上は、どうしたって間違えようのない事実である。それはよい。

だが、選択公理の独立性が確立されたことをもって、バナッハ=タルスキのパラドックスの物語の幕が引かれたとワプナーが言ったのはなぜか。この歴史認識が提示されるのは第1章だが、本書を最後まで読まないと、この点にかんする疑いは晴れない。

疑問を解く鍵は、ワプナーがどうやら数学の対象の実在を信じる実在論者ではないという点にある。第5章でバナッハ=タルスキの定理の証明を完了させたあと、第6章ではこの「パラドックス」の解明に移る。パラドックスというものを3とおりに分類できるとワプナーはいう。一つめは、正しい議論から導かれる「間違っているように見える」結論。二つめは、正しそうに見えるが実は間違っている議論から導かれる「正しそうなのに奇妙な」結論。三つめは、正しい議論によって相反する二つの結論が導かれる、いわゆる「二律背反」だ。バナッハ=タルスキの定理は、パラドックスとしては一つめの「間違っているように見えるが実は正しい」結論で、数学においてこの種の「病理的事例」に遭遇した場合、再検討され修正されるべきなのは、経験に培われたイメージのほうである。(念のために言うけど、これは俺が読みとった限りでの、ワプナーの考えである。)

正しく筋道を追って証明を理解し受けいれることで、パラドックスは解消するというわけだ。二つめのタイプのパラドックスも同様で、正しく筋道を追って証明に潜む誤りを見い出し修正すれば、パラドックスはたちまち解消される。正真正銘の二律背反の場合と違って、これらのパラドックスはいわば「見かけだおし」なのである。

二律背反は議論のよってたつ基盤を再検討する必要があることを意味するけれども、数学でこれに出くわすことは、幸か不幸か、ほとんどない。

第6章で長文にわたって引用されているリチャード・ファインマンの見解が、おそらくワプナーの数学に対する立場を代弁しているのだろう。ファインマンの見解をつづめて言えばこうだ。物理学者は実在との対応という側面から言葉の意味をつねに考えつつ、物理法則を言葉で定式化する。これに対して、言葉から内容を捨象して形式について判断するのが数学である。数学の知見は物理学者の問題解決におおいに役に立つが、両者が扱っているもの、というより言葉に対する両者の姿勢は、おのずからおおいに異なっている。要するに数学は言葉の意味を扱わない。

この立場に立つならば、選択公理の無矛盾性・独立性は、選択公理を公理として採用することが正当にして必要であることを意味するわけだ。すなわち、選択公理を採用するかしないかは、まさに選択の問題である。現代の数学は選択公理を採用する。そして、選択公理を採用すれば、バナッハ=タルスキの定理は、採用された公理から証明されたという意味において「真」である。数学としてはそれで十分で、「真偽」についてそれ以上深追いせずともよかろう、というのがワプナーの真意だと推察される。最後の第8章「過去から未来へ」で示された数学の未来へのきわめて楽観的な見通しも、この意味での数学の「自由さ」への信頼の上に立つものなのだろう。俺の見るところでは、『バナッハ-タルスキーのパラドックス』の砂田利一先生も同じ意見のようだ。志賀浩二先生は、おそらくそうではない。

(この書評は2011年8月31日の「て日々」に掲載したものに加筆・修正をおこなったものです)

ご感想などあれば以下のフォームにお願いします。
名前:
コメント:
最終更新:2012年08月01日 16:43
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。