六四天安門事件によせて

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六四天安門事件によせて


 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)とは、
1989年6月4日に、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊が、
「中国人民解放軍」によって武力弾圧(虐殺が行われたとする見方もある)された事件である。
本年2009年6月4日(木)は、この20周年にあたる。
 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)の発端は、当時、ソビエト連邦での
ソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフが、共産党による一党独裁制が続いた中で言論の弾圧や
思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために
「ペレストロイカ」を表明し、同国の民主化を進める流れが、旧東側諸国の脱共産主義化を後押しした。
 1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、
1986年5月に総書記の胡耀邦(当時)が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、
国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。
 しかし、胡耀邦は鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派の策謀により失脚し、
その後、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、
2年後の1989年4月8日に出席していた政治局の会議上で心筋梗塞を起こし、そのまま帰らぬ人となった。
 同国の民主化に積極的であった胡の死去は、中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる
胡の追悼集会となり、その後のデモ、ストライキ、座り込みなどの解決の糸口さえつかめないまま、
5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、党長老で事実上の最高権力者である
鄧小平を含めた会議が行われた結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定された。
 戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が
北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、
人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、
人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする
学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、
その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した他、
装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[5]。
この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、
最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[6](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、
学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。
 なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前後にからくも現場から撤収し、
支援者らの手引を受けて海外へ亡命した。

 事件の起因となった胡耀邦は近代の中国民主化の父であるといえる。
事実、胡耀邦は1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、
ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、
共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。
更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、
外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。

 今こそ、2009年6月4日(木)の、この20周年に向けて、
この胡耀邦を含めた「平反六四=六四天安門事件を再評価せよ」のメッセージを中華人民共和国に問いただすことは、
今後の中華人民共和国に対して、我々日本人が真の友人として諫言できる重要な節目でもある。

平成21年5月24日                   FreeJapan0
※参考引用以下より
http://ja.wikipedia.org/wiki/六四天安門事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/胡耀邦
最終更新:2009年05月24日 21:52
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