中国少数民族運動、日本の若者の叫び。

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 2008年チベット動乱から一年を迎え、フリーチベットを含む中国少数民族運動が過熱しています。
 中国政府に弾圧され、日本国内に在住し活動している中国少数民族(チベット・ウイグル・モンゴル・・・)の活動家を、
中国少数民族運動の当事者と言います。
 それに対して、中国少数民族を弾圧し、中国少数民族運動を制圧している、この場合は中国政府、
ならびに中国共産党をこれらの当事者に対して対象者と言います。
 中国少数民族は自らの高度な自治、人権の確立、漢民族との対等な関係を求めることを、
また、さらに要求を進めて、自治から国家としての独立を要求することを、正統な権利と位置づけ
それらの民族の当事者の正義運動を、政治運動に発展させてきました。

 これらの中国少数民族の正義運動や、政治運動を、その対象者である中国政府、ならびに中国共産党は、
「分断主義・国家分裂主義」と決め付け弾圧してきました。

 中国にとって、中華人民共和国の政治に従うことこそが正義であり、中国少数民族の活動家は、
中華人民共和国の統一と安定を妨げる分裂分子としての制圧の対象者になります。

 中国に経済的に恩恵を受けている、日中友好を口にする、日本の政治家・財界人は、
中国少数民族の人権侵害には耳目を閉ざし、口をつぐみます。
 日本での中国少数民族運動における、日本人支援者の多くは、政治家や財界人は少数であり、
そのほとんどは、一般の市民であり、その多くが若者です。
 中国での、共産党員高級幹部や役人ではありません。

 一部の識者は、この日本の中国少数民族運動の支援者を「ネット右翼=憤青」と見立てたいようですが、
サポートの現場としてのデモやキャンドル、ウロウロなどのフィールドワークの現場に参加する若者の多くは、
思想・信条にとらわれることも無く、特別な価値観に染まる以前の白紙に近い参加者がほとんどです。

 しかし、中国少数民族運動が日本においては右派の課題である限り、
そういった正義運動に集まる、白紙に近いその羊の群れを狙う、無節操な保守や、デンパな右翼が、
意外とたくさん紛れ込んでいるというのも、事実であり、少数といえども、彼らの声は大きく、その頻度の多さから、
その声が、日本での中国少数民族運動の主流になることへの危惧を抱き、慧眼をもって見定めることは、
よほどの練達者でなければ無理でしょう。
 また、その組織的な懐柔は、美辞麗句の巧言令色に包まれ、
同調圧力と情緒的村落の掟の中で、外れた者への卑劣な仕打ちは、左右や時代に格差は無く、
こういった正義運動の組織化には必然の過程でもあります。

 フリーチベット運動をはじめとした、この一年の中国少数民族運動の日本における正義運動は、
こういった従来の組織化される不幸を負った正義運動ではないようです。・・・あってほしくないと願っています。
 それは、インターネットという新たな媒体で運動を共有するという汗臭さのないクールな関係だから
なのかもしれませんが、人はそれを「オシュャレ」と言い、
青木直人氏は「ファッション」と鼻で笑い、水谷尚子氏は「借り物」と冷笑されます。
 しかし、その軽さこそが、近年の保守の大きな課題としての「北朝鮮による日本人拉致問題」よりも、
多くの日本の若者の参加がある事実を検証し、解剖してみてはいかがでしょうか。

日本の多くの若者が、チベットの当事者と、近年、日本を政治的に制圧する、
日本とチベットの共通の対象者としての中国に対して、共通の対象者としての共闘は自然な流れ
だったようにおもいます。
日本とチベットの共感としての、魂の叫びとなっての「フリーチベット」であったのだと感じました。
日本の多くの若者にとっての「純粋な正義の共感」としての叫びとして、私の耳には聞こえました。

 私はそこに、当事者でない気安さと、日本における、歪んだ歴史教育による「正義の不毛」が
根本にあると考えます。
 換言すれば、大東亜戦争以降の戦後レジームの中で「純粋な正義として叫べるフリーチベット」は、
フリチベTシャツを脱ぎ捨てれば、簡単に戦後レジームの日常に回帰できる、借り物のファッションということです。

それは、現代日本の若者にとっての、生理的社会適合の本能として、
                                  認められるべき新しい正義運動の形態ではないでしょうか。

2009/3/4  FreeJapan0
最終更新:2010年02月19日 16:10
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