せ‐そ


索引


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精神病院(せいしんびょういん)

  • 登場作品:学怖,学怖S,晦,VNV,AMC1
  • 関連人物:桜井先生,平井香苗,風間さん,坂上修一,桜井先生,平井香苗,安藤,森川,本田佐知子,財部美穂《犠牲者》
 俗に窓の無い病院、都市伝説では黄色い救急車で連れて行かれると囁かれる病院施設。

 一昔前に、とある研究者が患者を装って潜入したのだが、気付かれることがなかったとの研究報告もあり、治療施設としてのイメージは一般か、少なくとも「アパシー」では薄い。また、外界と遮断された密室である故に隠微な犯罪の温床となっているのではないかと言う指摘もあるが、内部事情については「アパシー」内でも描かれる事はなかったので省こう。

 また、一般的に想像される「精神病院」とは病棟の出入り口が常に施錠され、許可を求めない限り、患者や面会人の出入りが難しい「閉鎖病棟」のイメージだろうか。この場合だと、自他傷行為を行うと見なされるなど、緊急性の高い患者が搬入される。
 これは「アパシー」において描かれる像とも一致する。
 コンシューマーでは当然NGワードとなっているのか、この施設が直接言及される機会は無い。もっとも、あえて口に出すのは野暮と言う考えもあるか。実際、同人でも婉曲な表現でぼやかされていることが多い。

 バッドエンドの友(ここで言うバッドENDはゲームオーバーでなく、後味の悪い終わり方の意。意外に、ゲームオーバーになる展開は少なかったりする)として君臨している。[『学怖(S)』では隠し01での「思春期~」エンドが地味に印象深いと思う。]
 なお、『VNV』でもこの施設に収容されると言う強制バッドEND(一本道ゆえに)を迎えたが、それを狂っていると決め付けるのはあまりにも乱暴だろう。

 また、ここの入院患者が語り部の情報源になる機会も多い。入院期間が長期に渡るため昔に起こった事件のこともわかった理由が説明でき、それでいて話の後味を一気に悪くする効果も見込まれるからであろうか。
 一方で、「トモダチのトモダチ」ほどではないが、信頼性がかなり落ちるのが瑕疵だろうか。かの名作『アマデウス』の解釈も晩年のサリエリの悔悟録か、それとも彼の名を語った狂人の独白かと言う風に分かれるように、何を言っても妄想と片付けてしまえばそれまでのため。
 プレイヤーにとって語り部が話すのはあくまで「噂」であり、「事実」とは限らないことを忘れることはないでしょうが。

 [見てはならないものを見て、体験してはならないものを体験してしまった犠牲者達、もしくは自ら心の内を焦がし、そのまま身と心を傷つけることになった自覚なき加害者達が最後に行き着く場所。
 そんな名状しがたい彼らをひとつに押し込める方が残酷ではないかな? 「旧作」において「学校」から離れた外界が登場する機会は驚くほど少ない。異分子を許容するほど、きっと外界は優しくはないのだろう。突出した何かはオブラートに包まれ、誰も触れようとはしない。]

 [ずっと私見が続いていたが、さらに突っ込もう。
 狂気の人に独特の幽玄を、美麗さを、感じることがある。確かにある憐憫と嫌悪の情の中に――。[見るがいい、狂人は美しい!]畏怖すべき原初の美を見るのである。
 櫛も掛かっていない乱れ髪が好きです。箍の外れた哄笑が好きだです。点も見つめられない虚ろな貌が大好きです。
 飯島多紀哉氏も一時期、精神病院を舞台としたゲームを作りたいと言った通り、この題材に魅せられた一人なのだろう。勿論、筆者としてもこの項の精神病院観が穿った見方であることを否定しないが。]


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前世(ぜんせ)

  • 登場作品:学怖,晦,学怖S
  • 種族:現象
  • 関連人物:坂上修一,風間望,荒井昭二,宗一郎,市ノ瀬京子,姫川
  • 関連用語:死を招くベッド,無限ループ,永劫回帰
 その人間が生まれる前の魂がなんの生物であったかを示す言葉。
 輪廻転生の考えが存在する宗教において顕著に見られる概念である。
 特にヒンドゥー教・仏教と言った東洋思想では業(カルマ)から逃れ、輪廻の輪から離れる「解脱」を最終目標とすることなどから、生の連続は苦しみに他ならないことを示す。
 仏教の開祖である仏陀も一切の生まれ変わりから解放された存在とされている。よって、仏教系の新興宗教で転生の話が出たらその時点で眉唾と言ってよい。

 その苦しみの現れは転生した先も人間でない場合も多く、たとえば牛馬のような畜生となって人間に奉仕させられるような「畜生道」をはじめとする六道思想によってその明確な例として挙げられる。
 かと言って、輪廻に乗らず現世にしがみついている霊達が幸せかと言うと、そんなことは有り得ないわけで。この世の全てのものは苦しみよ。一切皆苦。

 もっとも、『学怖S』全体を貫いているのが無限ループからの解釈とすれば、「七不思議の集会」を構成する哲学はニーチェの思想「永劫回帰」になり、上記は否定されるのだが。


 『学怖(S)』風間六話において、風間さんが坂上の前世を占ってくれるのだが、大概は下等生物(イボガエルなど)にされてしまう。



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戦争(せんそう)

 戦争とは一般的に認められる国家が主に軍事力を用いて何らかの目的を達成しようとする行為もしくは結果発生した状態を指す。その概要は多岐に渡るため、現実的に言えばこの項で全てを語りつくすことは不可能と言える。
 よって、ここはWikipediaへのリンクで場を濁すことにしよう。 
 ⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/戦争

 この項ではシリーズにもっとも身近な「アジア・太平洋戦争」と作品の関係について追っていく。
 この項では現実の歴史の善悪について 論じない ものとする。


 まず、アパシー・シリーズに属する作品はあくまで創作と言うポジションを取っているが、現在のところ多少の差異こそあれその全てが「現代日本」と言う世界設定を取っている。
 もちろん、坂上たちが住む惑星が実は地球ではないとか、一回滅んでから似た歴史を繰り返しているとかのSF設定と言う可能性もなくはない。

 が、それを言い出すと、例えば「人間は酸素を吸う」と言う設定を踏まえていないのでは? と言う瑣末な疑問を逐一討議していかなければならない羽目に陥る。
 これは実に不毛である。いくら作品の内容が非日常であったとしても、特別の断りが無い限り「常識」と言う設定が創作の中に適用されると考えてよい。無論メタ手法等は除くが。
 今後特殊な作品が出ない限り「現代日本」と言う前提は揺るがないだろう。


 前置きはそこそこにアジア・太平洋戦争は日本が対外戦争において敗北したはじめての事例と言われており、米軍の無差別爆撃によって日本本土の民間人に多数の死傷者を出したことでも知られている。
 一夜にして十万と言う人を失った東京大空襲や広島・長崎の原爆投下は有名だろう。

 すると、大量の無念、迷える魂が発生したということでもある。
 学校の怪談で曰く付きの場が語られる際、理由付けとして戦没者の霊が登場することからわかるように、報われぬ彼ら彼女等についての話は全国に散逸している。

 ただ、七不思議の集会が行われた1995年と言う年は丁度戦後五十年の節目となっており、辛い記憶も忘れ去られた頃である。
 「学校」と言う環境では若い学生達が主役となり、彼らを指導する先生達の中からも直接戦争を経験した人はごく少数に限られるだろう。

 しかし、だからといって人間の恐怖と狂気の根源とも言える戦争がずっと身を潜めているというわけでない。その原因は戦火をも潜り抜けてきた旧校舎の存在である。


 それを如実に表した例として細田七話「旧校舎の壁に隠された秘密」はかつての戦争の恐怖を、亡霊たちによってかフラッシュバックした黒木先生の話であり、平和だが無為に暮らしている現代人への警鐘、恨みの念を現したものになっている。

 たとえ「旧校舎」が仮面の少女と言う世界そのものを閉じ込めているとしても、その前には多数の霊が存在するわけで。かつて死んでいった者達の多くは戦争によるだろう。
 直接つながるわけではないが、旧校舎と言う媒介を経て「戦争」と言う悪夢は「学校であった怖い話」のすべてに影を落としているのかもしれない。
 現に細田七話ではチェーンソーで暴れる細田の影に隠れがちだが、しっかりかの名言が出ている。消えていった亡き者達も、きっと真のEDのひとつであると主張している、か。

 また、それら戦争の惨禍を補完するものとして福沢三話「旧校舎の裏に立つ桜の木の呪い」や「夜の学校を彷徨う霊」等でも関連する話が取り上げられている。
 あまりにも多くの人たちが省みられることなく死んでいく有様は身に詰まされる思いである。……、プレイヤーにとっても背筋を正して真摯に聞くことは鎮魂となる。だから。


 『晦』では




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創作(そうさく)




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そしてすべてが終わった

 『学怖(S)』は選択肢によって展開が変わるが、中には七話目に到達する前に話が終わってしまうものも存在する。
 「そしてすべてが終わった」とはそのような話の最後に表示される言葉であり、俗にいうゲームオーバーである。

 このような結果になる展開を、大まかに二つに分けると以下のようになる。
①主人公が死亡する。
②七不思議を中断、もしくは続行できない状況になる。

 ①についてはホラーゲームの王道といえるだろう。主人公は多種多様な死を迎え、そして文字通り、彼(彼女)のすべてが終わることになる。

 ②については「七不思議の集会をする」という学怖独特の背景があってこそ、といえるだろう。七不思議をすべて聞くことが目的であるこのゲームでは、その中断=終わりなのである。

 単純に集会を止めてしまうこともあれば、凄惨な結末によって続行が不可能になる展開もある。中には主人公が殺人を犯してしまうものも(語り部たちは遠慮なく殺しにかかってくるのに、なぜか主人公の正当防衛は認められない。この理不尽さこそ学怖クオリティ)。

 なお、七話目は基本的にどんな結末だろうともクリア扱いになる(ただし『学怖S』の新堂七話目「殺人クラブ」だけは例外で、死=ゲームオーバーである)。

 バッドエンドだろうとグットエンドだろうと、七話目の話を聞き・体験することで話は一時的に完結し、そして主人公の物語は一話目に引き戻される。学校であった怖い話を終わりのない無限回帰の世界と見立てるのなら、それを中断させる「そしてすべてが終わった」こそ唯一の終焉と言えるかもしれない。

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そして恐怖は繰り返す(-きょうふはくりかえす)

  • 登場作品:学怖,学怖S
  • 関連用語:無限ループ
 隠し02を終了させると表示される一文。ある意味、これを見ることこそが『学怖(S)』のクリアと言える。隠し02自体が次代の新聞部と聞き手の話であり、後半の文章は視点を女性にしただけでオープニングと同じである。
 これによって再び七不思議の怪異が訪れるであろうことを予期させるが、実質プレイヤーはほとんどの話を聞き終わっており、ゲーム自体の追加要素はもう無いであろう状態である。

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すべては闇の中に…(-やみのなかに)

  • 登場作品:晦
  • 関連用語:そしてすべてが終わった
 『晦』は『学怖』と比べ飛躍的にバッドエンドに到達する確率が上昇した。最後に表示されるこのメッセージを目にする機会も多いだろう。なお、ここで言うバッドエンドとは悪い内容の結末ではなく、いわゆるゲームオーバーのことを指す。
 注:先に『学怖(S)』におけるバッドエンドの項を参照下さい⇒「そしてすべてが終わった」

 バッドエンドとしての性質は『学怖(S)』と共通する箇所も多いが『晦』独自の特徴としては一切の過程を無視して、何が何だかわからない内に主人公が殺されてしまう展開が出現したことが挙げられるだろう。
 無論、ホラーゲームでは後味の悪い結末や主人公の死(デッドエンド)は付き物だが、それでも、謎を放り出したまま闇に葬られるだろう理不尽な結末の数々にはぞっとさせられるものがある。

 なお『学怖』におけるバッドエンドを二分すると
①主人公が死亡する。
②七不思議を中断、もしくは続行できない状況になる。
 以上のようになり、『晦』でも概ねそれを踏襲しているのだが、ここで①の亜種として③親戚達によってたかって殺される羽目になる、を提唱したいと思う。『学怖(S)』における語り部達は基本的に横の繋がりは薄いのだが、『晦』では血縁関係にあるため、一人の逆鱗に触れることがすなわち……になりかねないのである。
 さらに、この場合は漏れなく真相がわからないと言うおまけ付きである。

 いずれのバッドエンドも親戚から時折かけられる問いかけに対して常識的・消極的反応を返すと引っかかる羽目になる。
 その他の特徴としては②がかなり多くなったことだろうか。『学怖(S)』の主人公は先輩から「七不思議の集会」を担当すると言う大役をもらって責任を感じているのであり、本人のモチベーションはどうであれ、責任を持って集会の進行役を務めなければならない。
 かえって、『晦』では動機が所詮は悪ふざけから来る趣向に過ぎず、七人で語って七話分の怪談を収集する理由もない。飽きてしまったらそれっきりで、実は主人公も聞き手になっている理由はなかったりする。

 『晦』と言う月を隠す時は人の心すら見せなくする。闇に満ちた空であり、それを乗り越えるのは並大抵の運命では足りないのかもしれない。



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