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有志達によるあるまちづくり活動を妨害した者達、これはその真相の記録文書である。

ある過疎化した町を活性化させようと掲げる「まちづくり活動」が、T.H氏を中心とした有志達によって行われようとしていた。

私もそのプロジェクトチームの一員として、これから記述する事の顛末を見届けた。

妨害者達による余りの行為の酷さ、ありさまに私は未だ憤りを覚えており、全ての善良な有志達の名誉のために、知り得た情報の(ほぼ)全てを記録文書としてここに残す。


2007年12月


大阪市北部に、周囲をビル群に囲まれた古民家の密集地帯がある。
大阪大空襲からも奇跡的に免れたその地域は、近年周囲の開発、大型商業施設等の進出によって過疎化、極端な高齢化となり、
かつては賑わった情緒ある商店街も寂れたシャッター通りに変わっていた。

T.H氏は様々な文化的活動を精力的に行い、全国の同志達との交流も多く持ち、それらのサポートも行いながら、ある芸術活動分野の認知度向上、発展も目標としていた。


空き家ばかりが目立つこの地域は、直近の都市部ビル街と比較して賃料が非常に低い。
利便性は相当なものだが、殆どが古民家であり、住居とするにせよ借り手自身による大掛かりな改装を必要とする為である。

このうち一件をT.H氏は借り受け、様々な活動に関わる人達が集う「複合アートスペース」兼住居にしようと発案。

築90年を超えるこの民家をリノベーション・再利用するには数百万円を必要とする。
これを一切業者委託せず、「お金をかけずに皆の手で手作り改装、外観はほぼそのままに、町のいいところをアピールしよう、これをきっかけに多くの有志を遠方からも町へ招き、本来の「まち」の姿を取り戻すとともに新たな道を踏み出させよう」
と。

現実に、日本各地にはこういった形で行政の協力を得ることなく、無茶な開発から時代を守り、成功させた事例はある程度あり、都会の中にあって古き良き頃に触れられる「ある意味、観光名所」として名が知れ渡りはじめた地域もある。
現代を生きる若手への研究勉強材料、刺激ともなる側面もあり、近年ではメディアからも度々注目されている。


この企画発表の直後から複数分野、異文化の有志達が協力や提携を表明、
これは「O・Y・N町再生プロジェクト」と命名される。
地域住民の実に大半も協力を申し出て下さった。
T.H氏が借り受けた古民家の所有者(建物の所有者。土地権利については以下に記述)もこれを快諾した。


さて、この地域が都市開発されない理由は、大阪府下としては稀なのであるが、一軒の地主が約5ha(木造古民家地帯全域)に及ぶ広大な土地を所有しており、建物所有者達からの交渉があっても売却をしないのである。
建物の持ち主は、それぞれ地代を支払っている。
この地主一族の意思として、大災害等で古民家が全滅すれば相当規模の開発を堂々と行うことが出来る、といった暗躍(期待感)は既に存在していた。
しかし、現状では経年劣化により倒壊する家屋はまれにあっても、不謹慎な大災害を待てるはずもなく、天変地異が起こり所有地全面の古い建物が一度に崩壊しない限り、事実上、大規模開発を行う事は不可能なのである。
地主は、住民とは意思が違う。開発に賛同しない・立ち退かない殆どの住民が邪魔なのである。
これは事前調査により判っていたが、住民は「町の形を残したまま再興したい」という意思が強く、決して負けるものではないと、T.H氏や有志協力者達も確信していたのである。
地目は商業地域であり、アートスペースの開業に何ら法的問題も無い。
永続は困難であるかもしれないがまず5年間。こういった具体的計画案も付近住民への挨拶を兼ねた説明会で行われ、参加者全員の同意を得た。

町内には以前よりアトリエ兼カフェが一軒存在し、地主と近い関係にある地元住民A氏の親族U氏が経営者であったが、
まちづくり、発展、復興、まちおこしといった活動に関心は無く(むしろ反対である)、T.H氏や有志達、同志達(以下、私達と記述)の日常の挨拶にも全く返答も反応もすることは無かった。常識的対応ではない。
後にこの者が発端徒党の一員となりプロジェクトが妨害され中止に至る事態となるが、この時私達は気付かず、「何か気に食わない人もいるのだろう」と、憤り・悔しいながらもなるだけ気に留めないようにしていた。

2008年3月


古民家の手作り改装が本格始動し、本職大工もボランティアとして駆け付け、各地各所各人から多くの中古物品等も日々寄贈された。
半年目標のリニベーション作業のスタートは順調であった。
そんな矢先、U氏と地主が突然に押し掛け、「余所者が町に入り込んで迷惑行為をするのはやめるように」と、法を無視した言い掛かりを付けはじめ、周囲は騒然となった。
建物の所有者(賃貸契約の家主)を交えた少しの問答で相手方は一度は退散した。誰かが通報したためである。

一週間すこしを過ぎた頃から、暴力団風の不審者らが周辺に現れるようになり、
深夜早朝、工事中物件前や周辺に汚物が投棄されたり外壁やガラスを破損させられる事例が連続。
不審者の特徴・目撃情報が数多く揃ったことから、私達は所轄警察署へ届け出た。
警備が強化され、同日からは一旦静穏になったが、私達の中には強い恐怖を感じ、協力から抜けてしまう方も数名出た。
一旦静かになったとはいえ事態の沈静化ではない。

2008年5月


周囲の風景の変化、作業の模様やまちづくり活動参加へのさらなる呼び掛けは、特設ブログをメインとして現地から日々更新していた。
参加者は増え続ける一方で、その中にある日のみ、U氏と地主の関係者(K氏)が黙って紛れ込んだが、該当時間は主要メンバーがたまたま不在であったため少し後まで気付かない事となる。

同月、町内のある古い銭湯が廃業した。
銭湯の経営者一家の方々も熱心な協力者であり、「解体してスクラップになるくらいならどこかに残したい」と、古い番台や木製のロッカーといった今では貴重品とも言えるものを寄贈してくださった。
他にも様々な物品があったが、大変な面積と量であるため、30坪の民家に収容するには限りがあった。
それらは、「有効利用してくれるならどなたにでも差し上げる」とのことで、銭湯解体前日には大勢が集まった。
ただし、「意思を理解したうえ、後日廃棄はしないこと。転売などは一切厳禁」の誓約を、T.H氏が間に入り希望する各自から取っていた。
K氏は、協力者でもない者達に無断で予め声をかけていたようで、大型トラック数台を用い、工事民家に搬入不可なものは銭湯に対する礼儀も持たず、
大型テーブルや水冷庫、露天風呂の華となっていた大理石、サウナ設備等を持ち帰った。
無論、大勢間での押し問答となったが短時間の間に車両は物品を降ろさず退散。持ち去りであった。
翌々日のK氏本人のブログとSNSで、それらは全て転売された事を皆が知った。

当然にK氏らとの関係は断ち切り、工事民家への立入りも一切禁止。連絡等も一切拒否を通告した。
K氏は態度を豹変させ、「工事を手伝った手間(計、約1時間弱)に相当する物品は持ち帰りたい」と脅しはじめたが、私達は固く断った。
翌週早朝に額縁、古時計、レコードプレイヤー、ステレオ、庭先のプランターの花壇、敷石、水道工事店が期待と善意で寄付してくださった展示品ウォシュレット等が盗まれた。深夜の間に何者かが持ち去ったものと思われる。
工事民家には、開始直後は協力者ならば誰でも入れるよう裏口に細工をしてあり、解錠の方法があったが、この頃は防犯のため厳重に施錠してあった。
この事も当然所轄へ届け出たが、犯人は不明のままである。盗難被害に遭った各物品が売りに出された形跡も掴めていない。


私達の内の数名で、地域の再リサーチのチームを結成した。

調査の結果、A氏、K氏、U氏、地主、暴力団風の男達は結託しているであろう、と確かな目撃情報を主とした状況証拠までが判明した。
だが以前に目撃された暴力団風の男達とは似てはいるが別人かもしれず、繋がりも掴めなかったため所轄署への届出には至らなかった。
K氏は民家を先に借り受け、飲食店と雀荘を開業しようと目論んでいたが先に(偶然)T.H氏が借り受けたことが、邪魔に入った一番の動機であるとの聞き取り情報も得た。
K氏による「飲食店と雀荘」の計画にはA氏、U氏や地主も結託し、「自分達のためだけのエセ町づくり」を行おうとしていたのだ。
違法性のある店舗の計画でもあったかもしれない。(地元民複数 談)


2008年7月


このようなものにはめげないと意識を更に強く持ち、
T.H氏は、「次は行政の協力も得ながらこんな行動も興したい」と発想の幅を広げていた。
この町の中心にある大きな公園と端を流れる川は、自転車放置やゴミ投棄で非常に荒れていた。
これを行政と住民が一体となって定期的に「イベントとしての清掃」をしながら実態的交流を広げようという企画である。

チラシ、ポスターを配布し説明会を開いたのちの初回実行当日、清掃や注意喚起看板設置に参加したのは役所の清掃グループと私達のみで、これまでは全面的協力を宣言してくれていた方々は来なかった。
前々夜と前夜に、「参加しないほうが良い。誰が参加したかは把握しておく」という内容の、脅迫、虚偽吹聴が並べられた怪文書が撒かれていたのである。


清掃イベント翌日の夜、T.H氏を含む3名は約300m離れた駅近くの暗い路上で正体不明の数名に襲われ、怪我を負わされることとなる。
2名は軽傷であったが、T.H氏は右足を骨折した。
さらに翌日夜にはT.H氏の実家へやはり正体不明の男2名が一般人があまり乗らぬような車で押し掛け、
「あの町から直ぐに手を引け」と言い放った途端足早に立ち去った。



大通りを隔てた隣町には古くから人気のある、ライヴのできる料理店がある。
私達がここへ入ったことに特段の理由はない。
私達の会話を少ししか聞いていないはずの、初老のオーナーシェフはぽつんとこう話してくれた。
「プロジェクトにあの地域は適さない。始める前に相談してくれていれば・・・」と。
他にも、知り得ることのできない事情も聞かされ、愕然とした。

住民のほとんどは、本当は「何か」に怯えながら暮らしていたのだ。
そこへ私達が入ることによって、一片でも希望を持てるのではないかと、内心から僅かな望みを託していたのである。
「何か」とは、卑劣かつ巧妙な手段で大規模都市開発に賛同しない住民を町から退去させようというものである。いやただの暴力的な、下品な、低俗な追い出し作戦である。
それには乱暴極まりない短期作戦もあれば、中・長期の陰険陰湿な企みもある。
(無謀な開発を象徴する意味合いで「地上げ」と呼ぶものより、はるかに悪質である。)


2008年10月


10月末日、T.H氏は、不本意にも賃貸契約を自ら打ち切った。
T.H氏や私達の誰にとっても、不本意であったことはもはや言うまでもない。
私達を説得する動き(詳細は伏せます)も多少はあったが、ここで続行すれば肉体的、精神的被害がさらに他の方へまでも及ぶかもしれない。
いよいよ全ての人や物が危険にさらされるかもしれない。何が起こるか想像することも出来ないが、耐え続けて解決に至るものではないという結論に達した。
そして、「取り返しのつかない事が起ってしまってからでは遅いのではないか?」と強く執拗に脅迫するメールが、複数(多数)のアドレス・複数(多数)のIPからメールアカウントのほか、Webサイトやブログにも大量に届いていた。
「Web上にある掲示板」や「本名を隠したSNS」にも、それは大量に貼られていた。


2008年11月13日、T.H氏は吐血を伴う胃腸の疾患等で緊急入院せねばならぬこととなった。

入院中に鬱病を発症、T.H氏は退院後、仕事と病気の狭間でその後数年に渡り苦しむこととなる。

※ 2012年9月8日の全活動復帰宣言まで、各活動の殆ども休止に追い込まれた。


事情の全てを大々的に公表することも出来ない。


先進国の一大都市の片隅で、このような事が現実に起った。
開発の悪い例の裏の姿、真の姿、正体である。不運で極端な例であろう。しかし事実は変えられない。
こうして貴重な空間が次々と奪われてゆくのか。


いつかまた別の地で、プロジェクトが再開されることを望みたい。



2015年末現在、
未だに本件に関する虚偽吹聴、根拠の無い誹謗中傷を繰り返している者もいる。
事象部分によっては名誉棄損、信用棄損、偽計業務妨害、威力業務妨害(等:他も有)にも明白に抵触する。
判断能力や自己を持たない付和雷同者のうち悪質な者も未だ反省無く存在している。あまりに陰険である。
極めて異常である。
ある文化的・芸術的分野の中で、対外的評価についてT.H氏に劣った者による「私怨」もここに含まれる。
(むしろ、当時の直接の加害者はほとんど絡んでいないであろう) 


当記事作成 20160203  栗原 礼拓 



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最終更新:2016年06月28日 09:11
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