ふしぎなキリスト教 @ ウィキ
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ふしぎなキリスト教 @ ウィキ
ja
2016-02-27T22:19:19+09:00
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「この本は社会学者がキリスト教徒にとって都合の悪い事を鋭く書いている!キリスト教について大いに学べた!^^」
といったレビューをしている方々から、一度も以下二点について具体的な話を聞いた事がありません。
&bold(){「何が参考になって、キリスト教の何をこの本で理解出来たのか」}
&bold(){「どこがキリスト教にとって都合悪いのか」}(「都合が悪い」から批判しているわけではないのですが…)
そもそもこの「ふしぎなキリスト教」、誤りもそうなんですが、&bold(){&font(red){支離滅裂で質疑応答になっていない部分も多々あって滅茶苦茶}}なんです。この辺については[[「ふしぎなふしぎなキリスト教」>http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%80%8C%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%80%8D-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E3%81%B5%E3%83%84%E3%83%BC%E9%80%A3-%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%84%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%80%A3%E5%90%88/dp/4863300581]]で、非信者である金田一輝さんから、詳しい指摘があります。ぜひお買い求めください。
あとは「信者だから感情的に反発しているんだろう」とか…いや、&bold(){信者じゃない人も批判しています}し(↓)、&bold(){橋爪大三郎氏はルーテル教会の信者なんですが}…(モノ書いているルター派の信者の割にはルター派についてすらも碌に知らないのも驚きでして…)
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」への【非信者による】批判 - Togetter>http://togetter.com/li/512005]]}
「学者が書いた新書だって、少しくらい間違っててもいいじゃない(笑)」と仰る方に、以下の言葉を贈りたい。
|&bold(){[[気のきいた発言をすることも大切だが、間違った愚かな発言をしないこともそれに劣らず大切なのである。>http://sekihi.net/stones/27040]]}|
|RIGHT:AERA Mook 12『社会学がわかる。』(朝日新聞社,2001)P11 &font(red){&bold(){橋爪大三郎}}|
学者で「少しくらい間違っててもいいじゃない(笑)」と仰る方に伺いたいのですが、そんな言い分は&font(red){理系では絶対に認められない}でしょう(大体【100箇所】を「少しくらい」と言って良いのかどうか)。&font(red){理系の本で100箇所間違いがある本}が出たら、その人の&font(red){学者生命}はどうなるか、どれだけ&font(red){批判}されるかを想像してみませんか。実際、「誤り」とはまたちょっと違う性質が含まれてはいるものの、STAP細胞問題は大変な騒ぎになっていますよね…まだ理系は自浄作用があるのかなと。いやそもそも、そんなに間違いがある事が判明したら、別の本を買った方が経済的では?
それと、「要旨・大枠では面白いんだから」という感想もありますよね…
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」は要旨・大枠からして滅茶苦茶です…>http://kliment.cocolog-nifty.com/kandazoshi/2013/06/post-f151.html]]}(当ウィキ管理人によるブログ文章)
それとよく見かける感想→「専門外でよく知らないのだけど、批判者はどうでもいい細かい間違いばかり指摘しているね」←&bold(){&font(red){「よく知らない」のに「どうでもいい細かい間違い」とよくお解りになるなあと感心します}}。これも理系では(少なくとも)学界では許されない、文系でしか許されない態度・感想でしょう。…いや、文系であっても、法学なら許されないと思いますが。通説・多数説・有力説を無視して、条文引用レベルで間違いだらけの本を「入門書」として売ったら、出版社も学者も一巻の終わりになります。
* ページ一覧
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]} (2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが指摘済み}}、さらに誤りが見付けられることも有り得る)
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* 協力団体
-&bold(){[[ふしぎなキリスト教問題を考えるツイッター市民連合・ジャーラム出版>http://www.fushi2kiri.net/index.htm]]}
-ジャーラム出版・慧文社さんから本が出ました。(&bold(){[[ふしふしキリとは?>http://www.fushi2kiri.net/fushi2kiri.htm]]}・&bold(){[[入手方法>http://www.fushi2kiri.net/index.htm]]})&font(red){&bold(){この「ふしぎなふしぎなキリスト教」は、本wikiの内容をただ移した本ではありません。p43からp164までは本wikiを元にしていますが、それ以外(全約三百頁強)は書き下ろされたものです。なぜ「ふしぎなキリスト教」が批判するに値する本なのか、きちんと論じている本です。}}(批判批判者は「本の内容は殆どウィキからの転載」というレビューを平然とネットに書いていますが、何のためにそんなデマを飛ばすのでしょうね)
* 当ウィキ管理者のツイッターアカウントとブログ
…「攻撃者は素性を明らかにしていない」と「攻撃」している人が居ますが、職場・立場・姓(名についてもギリシャ文字ですが)に至るまで、管理者は全てツイッターのプロフィールにおいて明らかにしていますので、誤解無いようにして頂きたく存じます。出鱈目だらけの新書1冊読む暇があれば、トップページくらい全部目を通しましょう。
-&bold(){[[suzutuki1980>https://twitter.com/#!/suzutuki1980]]}
-&bold(){[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/kandazoshi/2013/06/post-28cc.html]]}(ブログ)
-当ウィキは「誰でも編集出来る」ものではなく、上記管理者によって承認された僅かな人員(現時点で管理者の他には2名)のみで作成されてきております。編集に参加されるには管理者による承認が必要です。
* 外部リンク
-[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
-[[牛久教会の牧師 かねごん日記 : キリスト教の本>http://blog.livedoor.jp/kanegon8/archives/19327447.html]]
-[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
-&bold(){[[『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめインデックス - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」への【非信者による】批判 - Togetter>http://togetter.com/li/512005]]}
-[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ(検索結果) - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
-[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
-[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
-[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
-[[「ゆかいな仏教」への批判 - Togetter>http://togetter.com/li/584868]]
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2016-02-27T22:19:19+09:00
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疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『&bold(){ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){疑問符}のつく見解、および&bold(){偏見}としか思えない見解を扱う。
※ 当ページ編集者は、「面白ければいいじゃないか」「解り易ければいいじゃないか」という価値観には拠らない。たとえば乗法計算が出来ない人に虚数・複素数を説明して「解り易い」と思わせているとしたら、それは「解らせた」ことにならない(予備校で同様のことをやっていたら詐欺行為)。&bold(){理系でも文系でも、最低限求められるレベルというものがある}のは同じ。
※ &bold(){&font(red){橋爪も大澤も、「日本人が西洋を理解するのには、根底にあるキリスト教理解が不可欠」として本書を売っている。だったら当のキリスト教でどう理解されているのかを正確に語る必要があるだろうし読者もそれを期待するのだが、中身が一般にキリスト教の見方からかけ離れた「橋爪教」というのでは、一種の詐欺。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-姉妹ページ
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]} (2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが指摘済み}}、さらに誤りが見付けられることも有り得る)
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* 疑問符のつく見解
- 目次
-1 日本の神々はお友達
-2 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します)
-3 一神教=キレまくるエイリアン教です
-4 ふしぎな独自の説が出される→それがもっとふしぎな疑問を生む→橋爪と大澤の二人でもっともっとふしぎがる=&bold(){最もふしぎなループ}。
-5 無神経・偏見としか思えない見解
-6 ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます
-7 社会学?
-8 意味不明
-9 思いつき
-10 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切
** 日本の神々はお友達
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p21|「日本語で「神」というと、どうしてもなれなれしいニュアンスがまぎれ込んでしまうので、以下、一神教の神をさすことをはっきりさせたい場合には、なるべく「God」ということにします。」|柳父章も示している見解ではある。しかしなぜ英語のGodなのか?散々他の箇所で「(ローマ教会も)本来なら、ギリシア語であるべきですね」(p258)などと述べて「キリスト教、特に東方教会と言えばギリシア語」という見解を披歴しているのに、日本語の「神」との比較対象が英語だけというのは矛盾してはいないか。&br() ちなみに英語の"god"もギリシア語"θεος"も、複数形にしてそれぞれ"gods", "θεοί"として「神々」とする語義があり、一神教だけで使われる語彙ではない。英語もギリシア語も現代においては最初一文字を大文字にするか小文字にするかの違いはあるが、古典時代のギリシア語には小文字は無く、多神教の神々も"ΘΕΟΙ"と書いていた。&br()つまり&bold(){多神教で使われる語彙を一神教にも使うということ自体は、日本語の専売特許でも異常な現象でも何でも無い。}&br() 日本語聖書の訳語について考察した著作としては柳父章の『ゴッドと上帝』は大いに参考になるが、柳父章も橋爪も、英語やギリシャ語でも多神教に適用される語彙がキリスト教にも使われているという事実には関心が薄いようだ。|[[Ὁμήρου Ὀδύσσεια Ραψωδία α' - Θεῶν ἀγορά. Ἀθηνᾶς παραίνεσις πρὸς Τηλέμαχον. Μνηστήρων εὐωχία.>http://homer.agrino.org/odyssey/ancient_greek/rapsody_ALPHA.htm]](ホメーロス『オデュッセイア』の実例)|
|p20|「(日本の)神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。友達か、親戚みたいなもんだ。」|早良親王、菅原道真が「仲間」?男か女かも解らない金屋子神が「親戚」?道祖神が「友達」?&bold(){橋爪氏の多神教についてのイメージは一面的に過ぎる。}||
** 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します)
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p21|「Godは、人間と、血のつながりがない。」|至聖三者(三位一体の神)のうち、父なる神・聖霊についてはそれでいいかもしれない。しかし受肉(藉身)した第二位格たるイエス・キリストは眞の神としてキリスト教で捉えられているのだから(表現方法について対立があるとはいえ、非カルケドン派に至るまで現代の伝統的キリスト教の大半から「イエス・キリストは神であり人(神性と人性)」という見解は認められている)、少なくとも至聖三者(三位一体の神)のうち、&bold(){第二位格(イエス・キリスト)については「人の肉体をもって」おり、血のつながりどころの話ではない。}「三位一体の神全部と血のつながりがあるわけではない」のなら何とか解るが。&br() &br()ちなみに右参考文献『キリスト教神学基本用語集』では受肉(incarnation)について「キリスト教を他の一神教から区別する重要な点の一つ」としているが、この「重要な点」を橋爪は全く押さえていない。&br()尤も、橋爪は169頁でアリウス派異端的な誤解を披瀝しているから(というよりキリストの神性を認めていない)、こうした記述も橋爪にキリスト論の基本知識そのものが無いことによるものと思われる。橋爪がキリストの神性を認めようと認めまいとどうでも良いのだが、これを「キリスト教はこう信じています」とすれば、それは虚偽か誤りでしかない。|Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126|
|p23|「(Godと人間の)よそよそしい関係を打ち砕こうと、イエス・キリストは「愛」をのべて、大転換が起こるんです。」|イエスがこの世を生きた時代の律法学者の間でも、申命記6章5節「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、&bold(){主を愛さなければならない。}」レビ記19:18「あなた自身のように&bold(){あなたの隣人を愛さなければならない。」が一番大事な教えだということは認識されていた}。だからこそイエスの問いかけに対して律法学者がこの箇所を「律法の一番大事な部分」として答える場面が、「サマリヤ人のたとえ」の手前(ルカ福音10:27)にある。愛を説いたのはイエス・キリストが最初ではないし、旧約聖書で「愛」を探せばいくらでも出てくる。 &br() &br() むしろ大転換というのなら、モーセすら見ることのできなかった神(の第二位格)が、受肉(藉身)によって「見ることの出来る神・人になった」ことこそ挙げなければならないのだが、非カルケドン派が分裂した原因を「三位一体論」と述べてしまいキリスト論が分裂の原因であったことを知らない誤りから判る通り、橋爪は基本的なキリスト論(眞の神・眞の人)を全く認知していない。|[[口語訳聖書「愛」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=jc&keyword=%E6%84%9B]] &br() &br() [[新共同訳聖書「愛」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E6%84%9B]] &br() &br() Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126|
|p47|「ユダヤ教には、原罪という考え方はない。」|他のところでも言える事だが、本書では&bold(){見解が分かれる問題につき、あっさり断言する傾向が目立ち過ぎる。}あくまで「ユダヤ教多数派には原罪という考え方は受け入れられて居ない」が、受け入れるユダヤ教神学者も居ないわけではない。&br()なお、原罪はキリスト教全部に受け入れられると橋爪は考えているようだがこれも間違い。正教会は「原罪」という考え方から距離をとっている。|[[SIN - JewishEncyclopedia.com>http://www.jewishencyclopedia.com/articles/11766-original-sin]]&br() &br()[[教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan>http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie03.html]]|
|p33|「バビロンには、天地創造の神話や大洪水の物語などがあって、それを取り入れた。聖書の冒頭の『創世記』もこうして出来あがった。」|そう信じていない人も少なくない。「モーセが書いた」という伝承をそのまま信じる人も居る、という断り書きが必須だろう。こうまで完全にキリスト教全部で信じられているかのように断言されると、なぜアメリカで公教育の場で進化論が問題になっているのかが解らないし、「一部の原理主義者が騒いでいる」位に誤解しかねない。実際には現代でも、「モーセが書いた」という伝承をそのまま伝えるか、もしくは「そういう伝承があることは、伝承として一応教える」教会は少なくない。|"The Orthodox Study Bible: Ancient Christianity Speaks to Today's World" p1, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17)|
|p94|橋爪「これを矛盾なく受け取るにはどうしたらいいか。私の提案ですが、人間は神に似ているが、神は人間に似ていない、と考えればいい。言っていること、わかります? たとえば神を、四次元の怪物みたいなものと考えるのです。それを三次元に射影すると、人間みたいなかたちになる。人間が神をみると三次元だから、自分とおんなじだと思うかもしれないが、神の存在そのものは、人間より次元が高いから、目がいくつもあって、ヒンドゥー教の神みたいな怪物のかたちでもおかしくない、どう?」大澤「なるほど、おもしろい解釈ですね」|ヒンドゥー教の神を「怪物みたいなかたち」と言うのはそもそもどうであろうか。問題ある発言ではないだろうか。&br()&br()「わたしの提案ですが」と断り、一般的な意見として紹介していないところは認めるにしても、創世記1章27節他に現れる「人間は神の似姿である」という、ユダヤ教理解にとってもキリスト教理解にとっても重要なテーマを、過去2000年以上に亘りユダヤ教徒やキリスト教徒によってなされた真剣なそして膨大な議論に全く触れずに、&bold(){橋爪氏の理解のみ紹介するというのはどういうことであろうか。本書の目的は読者が「キリスト教を理解する」ためだったはずだが、実は橋爪氏を理解するためなのだろうか。}||
** 一神教=キレまくるエイリアン教です
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p21|「(Godって)エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。」|キリストの神性を認識していない橋爪にとっては、&bold(){真の神であり真の人であると理解されるキリストも「地球外生命体」で「エイリアンみたい」なのか。}すると、聖母マリア(生神女マリヤ)は「エイリアンを生んだ」と?「真の神・真の人」というキリスト論の理解が根底に無いことがここでも露呈している。 &br()&br() 「怒りっぽいエイリアン」論では、イエス・キリストによる病人達の癒しの話や、異民族で仮想敵国の将軍ナアマンを癒した神の愛(列王記下5章)といった話が伝えられていることにつき説明がつかない。 &br() &br() 結局、我田引水的に「こわーいエイリアンっぽい」要素だけを抜き出して列挙しただけ。橋爪論法は大体がこの調子。&bold(){1、まず橋爪氏の思い込みによる結論を立てる、2、その思い込みに合致するものだけを列挙する。}|[[Богочеловек>http://azbyka.ru/dictionary/02/Bogochelovek-all.shtml]]&br() (…ボゴチェロヴェク、神(Бог)+人(человек)、直訳すると「神人」。神性人性の両性論を前提とした、イエス・キリストを指すロシア語での表現。|
|p20|「すると、一神教がふしぎです。(中略)なぜ神様にあんなに怒られて、それでも神様に従おうとするんだろう?」|怒られても、それ以上の恩恵を受けていたら子どもは親の家にとどまることを考えれば、何が不思議なのか判らない。&br()&br() 「生かされていること、奴隷の境遇から脱出させてもらったこと、病気を癒してくれたこと、神であり人であるキリストが人々の来世の命のために十字架で死んで復活してくれたこと」が信じられていることは一切スルーして「ふしぎです。」と言っているが…、これも「ふしぎ」という結論に合わせて、ふしぎな「キレまくるエイリアン」くらいにしか「キリスト教の神観」を書かないのだから、ふしぎ以外の結論が出よう筈も無い。&br()&br() そもそも多神教でも怖い神様は結構居て、日本では「祟り神」が、祟られることもあるにも関わらず信じられている(場合によってはそれを上回る御利益があるから)。結局橋爪氏は一神教だけでなく多神教もよく知らない。|[[口語訳聖書「恵み」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=jc&keyword=%E6%81%B5%E3%81%BF]] &br() &br() [[新共同訳聖書「恵み」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E6%81%B5%E3%81%BF]]|
** ふしぎな独自の説を出して、それがもっとふしぎな疑問を生み、二人でもっともっとふしぎがる、というふしぎループ。
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p23|「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。(中略)(Godは怖いから)自分たちの安全のために信じる。」|詩篇には「願い事」「感謝」も沢山されているが、詩篇を一篇も読んだことが無いのだろうか?&br() &br() 「怖いGodの言うとおりにして怒られないようにする」だけの理解では、聖書もキリスト教も「解り易くなる」どころか、かえって「何も解らなくなる」。|[[新共同訳「詩篇」で「ください」の検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=psa.old&keyword=%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84&flag_back=1]] &br() &br() [[口語訳「詩篇」で「ください」の検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=jc&book=psa.old&keyword=%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84&flag_back=1]]|
|p37|大澤「どれほど我慢強い人であっても、(相当ひどい目にあった)そのあたりでヤハウェとの安保条約を解消しても良さそうなものです。ところが、まさに、安保条約を破棄してもよさそうなその時期にこそ、ユダヤ教は磨きがかかり、ほぼ完成した。これはいったいなぜでしょうか?」|答え→&bold(){p23橋爪「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。」という断定がそもそも間違っているから、と考えればシンプルに解決。}||
|p39|大澤「安全保障のために契約した神が&bold(){ちっとも安全を守ってくれなかった}のに、なぜ信仰が衰えなかったのでしょう?」橋爪「(前略)いじめられっ子の心理。&bold(){イスラエルの民は弱いので、}いじめられる。(後略)」|「いじめられっ子の心理」というような偏見に満ちた表現を教育者でもある大学教授がしている時点で驚きであるが(それは下記の通りここ一カ所ではない)、問題はそれだけではない。&br() &br() ダビデ王朝はオリエント世界で例を見ないほど長命な王朝であったことを完全に橋爪氏も大澤氏も無視している。ダビデ王朝始祖であるダビデ王の治世が&bold(){紀元前10世紀前半}。南ユダ王国滅亡が&bold(){前587年}(年代はキリスト教大事典による)。&bold(){実に400年以上、ダビデ王朝は存続している。このような長命王朝は単独王朝としてはオリエント世界に類例が無い。}これはメソポタミア(アッシリア、バビロニア)とエジプトという両大国に挟まれた地域にある王朝としても特筆すべきことであり、このような困難な地域情勢にあってそれだけの長命政権が存続し得たことにより「神から守られている」と考えるというのは、必ずしも「ふしぎ」な事ではない。&br() &br() またオリエントだけでなく、400年以上存続した王朝が世界史上でどれだけあるかを鑑みれば、果たしてイスラエル・ユダヤ人を「弱者」とだけ片付ければ良いのかどうか、大枠でも疑問が出よう。&br() &br() 「ローマ帝国滅亡後、しばらくして、全地公会議が開かれなくなった」といった、約400年を「しばらくして」と表現してしまう橋爪氏の姿勢にも表れているが、橋爪氏も大澤氏も「年代」についての把握が非常に苦手のようである。|山我 哲雄 (著), 佐藤 研 (著) 『旧約新約聖書時代史』p51, p99, 教文館 (1992/02) ISBN 4764279037&br() &br() 『キリスト教大事典 改訂新版』 p1082 教文館(第4版)|
|p94|橋爪氏は「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」と、「創世記を読んで受ける印象」をまとめた上で、「神がもともと姿もなく、世界の外にあって世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。」と述べている。|&bold(){前提がどちらも間違っている。}&br()&br()「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」&bold(){そのような記述は創世記のどこにも無い}。「主なる神の歩まれる音を聞いた」(創世記3:8)の記述を念頭に置いているのかもしれないが、ここでは「音」しか聞こえておらず、姿は見えていない(この「音」の単語・訳語を巡り解釈は割れており、瑣末な問題とは捉えられない)。「だいたい人間と同じ大きさ」に至っては、一切記述がない。「かたちに似せて」作ったものであっても、等身大とは必ずしも限らないことは、世間にある人形、&bold(){ぬいぐるみ}、模型などを見ても明らかであろうが、&bold(){橋爪氏には「似せて」=「等身大」というふしぎな思い込みがあるようである。}&br()&br()また、「神が世界の外にあって」というのも典拠不明の珍説。少なくともキリスト教ではそのように教えられていない。橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、ここにも&bold(){橋爪氏の大枠で一貫した誤解}が示されている。→[[聖書篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]](p75, p76)、[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]](p312)も参照。&br()&br()勝手に、誰も言っても書いてもいない、自分の思い込みを二つ並べ「矛盾しているのでは?」と問いかける橋爪氏。&bold(){誰も言っても書いても居ないふしぎな独自解釈を前提に、独自議論を展開してふしぎがる。ふしぎ拡大再生産。}|[[Genesis 3:8 Then the man and his wife heard the sound of the LORD God as he was walking in the garden in the cool of the day, and they hid from the LORD God among the trees of the garden.>http://bible.cc/genesis/3-8.htm]]&br()&br()[[創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解>http://togetter.com/li/641734]]|
** 無神経・偏見としか思えない見解
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p20|「(神様は友達みたいなものだ、だったら大勢いた方がいい、)&bold(){友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。}」|友達が少ないいじめられている子どもは「ろくなやつじゃない」とも取られかねない無神経な発言です。ちなみに&bold(){本書には様々な箇所で「いじめ」に無神経な言葉が沢山出て来ます。}大学教授も教育者の筈なんですが。||
|p44|「イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。どちらが本物かというと、負け組のユダヤ教だと思う。(中略)(国家が消滅しても信仰を持続させた)ユダヤ教の戦略の正しさを(イスラエル建国が)証明していると言えるのです。」|「勝ち組」「負け組」という問題が多い二項対立を「宗教社会学者」が宗教の分類に使うという時点で驚き。&br()更に、ユダヤ教が「本物」だとすると、イスラム教は「偽物」「まがい物」であると言いたいのだろうか。ムスリムの方に対して大変失礼な言い方である。&br()また、シオニズムは19世紀後半になってから様々な要因で起きたもの。「イスラエル建国」が「ユダヤ教の戦略の正しさを証明している」と捉えては、イスラエル建国に懐疑的だったユダヤ人達の存在を理解出来なくなる。||
|p328|大澤「ソ連時代に東方正教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。正教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」|&bold(){何が「ちょうどよかった」のだろうか?意味不明。}&br()&br()大澤氏によれば「正教を弾圧する」→「精神面の空隙」→「マルクス主義が入り込む」というように、時系列上の間に「空隙」があるかのようだが、そのような事実は無い。&br()&br()また、かなり&bold(){無神経な発言}でもある。たとえば「&italic(){中華人民共和国ではチベット仏教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。チベット仏教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。}」などと何の断り書きも無く発言すれば、関係各所から猛烈な抗議が来るに違いない。&br()&br()「たいへんな被害」と一口に片づけた後で、「マルクス主義があったからちょうどよかったのかも」などという能天気な発言からは、どれほどの「被害」があったのか完全に無知なのが知れる。&italic(){ソ連では1918年から1930年までにかけてだけで30万人(!)の聖職者が殺され、1937年と38年には残っていた52人の主教のうち40人が銃殺されている。}&bold(){なお、この数字は聖職者だけのものであり、膨大な数の一般信徒は含まれていない(つまりさらに犠牲者は多い)}。修道女も大虐殺の憂き目に遭った。|高橋保行『迫害下のロシア教会―無神論国家における正教の70年』p125 - p126, 教文館 (1996/01)|
** ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p22|大澤「宇宙と人間を「創造した」Godが、人間にとってはエイリアン、地球外生命体のようなものであるなら、そんな怖いGodといかに付き合うかが一神教の重大なテーマになりますね?」橋爪「はい。」|誰がどこでこのような考え方を「重大なテーマ」と言っているのか?学者が「重大」というからには根拠がある筈だが。まさか大澤と橋爪の二人だけにとって「重大」という意味では無いだろうが。||
** 社会学?
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p146|橋爪氏:イエスが「わずかな食糧で大勢を食べさせた奇蹟」は、「社会学的に言えば」「実際に起こりうることだと思う」。それは、人びとが隠し持っていた食糧を「イエスがうまく、みんなで分け合うように誘導した。それで、みんな食べられた、というわけです」。|人びとが、自分のために隠し持っていた食糧を云々という解釈は、社会学的な見解でも何でもない。このような解釈は、例えば聖書学者であるV. TaylorがThe Gospel according to St. Mark, London, 1963, p.321に記している(ただし、Taylorはこの解釈を退けている)。一読者としては、このような奇蹟物語がどうして生まれ、何故伝承されていったのかを「社会学的に」考察して欲しかった。||
** 意味不明
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p250|「公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。」「公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。」|多数決なのか多数決で無いのか、&bold(){どちらなのか?}||
** 思いつき
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p17|「イエスの出現は、旧約聖書の預言者がやがてメシアがやってくると、預言していたものです。(中略)特に、&bold(){『イザヤ書』の真ん中より少し後ろ}(第二イザヤの預言と言われる部分)にそのことが書いてある」|メシアの到来が、イザヤ書の第二イザヤが記したと言われている個所に書かれているというのは正しい(イザヤ書52章13節から53章12節)。&br()とは言え、橋爪氏の他の著作にも言えることだが、彼は第二イザヤのメシア預言をのみもっぱら取り上げ、他の箇所をあまり取り上げないのはどうであろうか。例えば、有名な「処女懐胎」をマタイ福音書が語る際、預言として引用している旧約聖書の個所は第二イザヤではなく、第一イザヤが記したとされるイザヤ書7章、所謂「インマヌエル預言」(もっとも、ここの「おとめ」が処女が、ただの若い女かは議論があるが。なお、この個所はルーテル教会などをはじめとして、教会ではクリスマスには必ず読まれるはずの箇所でもある)であるのだから(マタイ1:23はイザヤ7:14の引用。更に、マタイ4:15もイザヤ8:23、9:1の引用)。なるほど、新書という点で分量に制限があるから多くの個所に言及することは出来ないであろうが、そうであったとしても、一般の読者に馴染みがないであろうし説明も為されていない「第二イザヤ」などという言葉を用いず、「イザヤ書」とだけ語り、他の文書、たとえば「詩篇」なども挙げておくのが適切であると考えられる。|[[Catholic Encyclopedia Isaias >http://www.newadvent.org/cathen/08179b.htm]] |
|p277|「新大陸の発見は、大航海時代をもたらした。でも、大航海と言えば、中国人だってイスラム教徒だって、航海の能力をもっていた。問題は、航海の能力ではなく、新大陸に移住する動機を持っていたかどうかです。なぜキリスト教徒だけが、新大陸に大挙移住したのか。それは、旧大陸でいじめられたから。宗教改革は、キリスト教にふたたび亀裂をうみ、不寛容と宗教戦争をひき起こした。戦争では、勝ち組と負け組みができる。負け組は居場所がない。ボート・ピープルになって新大陸を目指すしかないんです。旧大陸でそこそこ安楽な暮らしができれば、誰が好んで新大陸に行きますか? だから中国人もインド人もアラビア人も、新大陸に向かう積極的な動機を持たなかった。キリスト教徒だけがその動機を持ったのです」|もちろん動機も大切である。しかし橋爪氏の頭の中には、地理的な有利不利という考えはないのだろうか。ヨーロッパと中国とインドとアラビア、どこが最もアメリカ大陸に近いか、その物理的距離がアメリカ大陸の発見と人々のアメリカ移住にどれだけ有利であるか、読者の皆様は考えられたし。更に、大航海時代の中国やインドやアラビアに住む人々が「そこそこ安楽な暮らし」ができた、と考える根拠も不明である。&br()なお、橋爪氏はアメリカ大陸を「新大陸」と呼ぶが、現在ではこれはヨーロッパ中心主義あるいは植民地主義の言葉であるとの批判がある。|[[世界地図>https://maps.google.co.jp/maps?q=america&hl=ja&ie=UTF8&ll=37.09024,-95.712891&spn=132.409486,346.289063&sll=35.564346,139.457372&sspn=0.010072,0.021136&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&hnear=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD&t=m&z=2]]|
|p326|「ヘーゲルの弁証法はもっとあからさまに、キリスト教の論理を取り込んだものになっている。三位一体を下敷きにしたものだと思います。ドイツ語には再帰動詞というものがある。『自らを○○する」のような、自動詞でも他動詞でもない第三の動詞なのですが、この動詞の用法が弁証法のロジックとシンクロしている。ルターのドイツ語訳が、この組み合わせを生み出したのだとすると、ヘーゲルも、マルクスも、その残響の中で仕事をしている」|不明である。&br()ヘーゲルの弁証法がどのように「三位一体を下敷きにした」のか説明が無いために、まったく不明である。なるほど、ドイツ語の再帰動詞の「用法が弁証法のロジックとシンクロしている」と橋爪氏は説明しているが、三位一体とドイツ語の再帰動詞と弁証法とがどのような関係にあってどのような意味で「シンクロしている」のか、一切説明せずに、読者の想像力にまかせている点で、何も言っていないに等しい。そもそも、ドイツ語以外にも再帰動詞があるのに、何故ドイツ語だけが「弁証法のロジックとシンクロ」したのか、全く不明であるし、再帰動詞が自動詞と他動詞の関係が、どのような意味で「命題」「反命題」「統合」の関係であるのか、不明である(そんな説明をする言語学者はいない)。&br()&bold(){要素が3つあれば三位一体だ、というのは、何の説明でもない}。||
** 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切
|&bold(){頁数}|&bold(){疑問符のつく記述の引用}|&bold(){指摘}|&bold(){参考文献}|
|p343|「※主の祈りは、福音書(マタイ6章、ルカ11章)でイエスがこうして祈れと教えた祈りで、キリスト教徒に共通の祈祷である。教会・教派ごとに表現のちがいはある。ここに載せた日本語は、よくあるものを選んだ。なお、最終行は福音書にない、付加部分。「罪」とあるのは原罪ではなく、咎や過ちの意味である」&br()&br()として、ルーテル教会式文の「主の祈り」の訳と、King James Version Matthew 6:9-13)として英語版のLord's Prayerを掲載|1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「主の祈り」を追加したのか&br()&br() 2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である&br()&br() 3. ルーテル教会式文における「主の祈り」の翻訳は日本キリスト教協議会統一訳と漢字表記が違うだけのものである上、「キリスト教徒に共通の祈祷である」のは確かである。これも真正な「主の祈り」の訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問 &br()&br()4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくギリシア語コイネーである。&br()&br()5. &bold(){ [[すでに指摘済みであり、繰り返しになるが>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]} "King James Version Matthew 6:9-13"として欽定訳聖書から引用しているが、これと「最終行は福音書にない、付加部分」という注釈が致命的に食い違っている。福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。欽定訳聖書のマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。&br()&br()6. この橋爪大三郎の説明を敷衍して考えると、欽定訳聖書だけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。}&br()&br()7. 橋爪大三郎は日本福音ルーテル教会の信徒ながら、『ふしぎなキリスト教』本文中において「イエス・キリスト=神の子」という概念をふしぎがっているが、キリスト教の基本においてキリストだけが「神の子」であるわけではない。十字架の恵みと聖霊の注ぎによりキリスト教徒すべてが罪人のままあがなわれ、「神の子」として扱われる。その約束のもとに、創造主なる神を「天にまします我らの父よ」と呼ぶことができる、という理解である。これはルターの小教理問答にも書かれている、多くの教派に共通した基本的な理解である。橋爪大三郎のこの著書、および他の著作を読んでも、彼がこの「主の祈り」の一行目すら理解できていないのはふしぎである。また、そのような基本教理の説明もなしに、「主の祈り」を、ふしぎな言い訳のように掲載するのもふしぎである。| [[ ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会>http://www.jelc.or.jp/belief/belief2.html#belief_stitle5]]&br()&br()[[カトリック教会のカテキズムによる主の祈り デルコル神父訳>http://www.geocities.jp/avemaria888jp/13.html]] &br()&br()[[祈り 私祈祷 日本正教会>http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/inori05.html]] &br() &br()[[ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会訳 問187-196>http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/]]|
|p443|「※使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)である。日本語はよくあるものを選んだ」&br()&br()として、ルーテル教会式文の「使徒信条」の訳とLutheran Service Bookからの英語訳を掲載|1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「使徒信条」を追加したのか&br()&br()2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である&br()&br()3. ルーテル教会式文における「使徒信条」の翻訳は真正な訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問&br()&br()4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくラテン語である。&br()&br()5. 使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)とあるが、これは誤解を招く表現である。確かに、この信条による神の三つの位格への信仰告白は、三位一体への信仰告白としても理解される。ルターの小教理問答でもそこを強調している。しかし、三位の位格が「一体」であることの告白文としては弱い。なぜなら、そこがこの信条の主眼ではないからである。&bold(){一般的な理解において厳密に言えば、三位一体をまとめた基本信条はアタナシオス信条である。}&br()&br()5. &bold(){使徒信条は主に西方教会で用いられ、東方教会では用いられていない。}使徒信条はせめて「西方教会の信ずべき事柄を簡潔にまとめたもの」という位置づけにするのが適切だろう。&br()&br()6. この文脈だと、カトリックでもプロテスタントでもない、正教会は三位一体を採らないように読めてしまうが、&bold(){東方教会でも西方教会でも共通して使われている[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%E4%BF%A1%E6%9D%A1]]にもみられる通り、正教会も三位一体を信仰している。}そもそも[[アルメニア教会についての誤認>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]](p256)がある段階で、橋爪氏も大澤氏も碌に東方教会につき調べていないのではと疑われる。&bold(){幅広く使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条を挙げずに、(ルーテル教会訳の)使徒信条を挙げたのはなぜなのか疑問。}尤も、東西教会分裂の原因にフィリオクェ問題を挙げていない両氏の姿勢を鑑みれば、同信条を挙げようとしたところで、結局は「子からも」の有無の違いに言及することは出来ないかもしれず、そうなるとやはりいずれにせよ、東西教会の中立的観点は損なわれるが。&br()&br()7. Lutheran Service Bookにおけるこの「使徒信条」の英訳は宗教改革時、カトリックと対立した際に「聖なる公同の教会」にあたる "sanctam Ecclesiam catholicam"という語句を「カトリック(普遍的な・公同の)」の語を避けて"the holy Christian church"と訳したものであり、教派色が強い訳文である。カトリック、聖公会、改革派・長老派、メソジストなどでは"the holy catholic church"という訳を用いる。ELCAなどルーテル派でもエキュメニカル版の使徒信条を作成しており、その訳文では"the holy catholic church"という訳を用いる。&br()&br()8. 著者が大学教授ならば当然理解しているはずだと信じるが、ある特定のテクストを選ぶ際、その選択はある種の主張の表明ともなりうる。日本福音ルーテル教会の信徒である著者がルーテル派の教派色の強い「使徒信条」のこの訳をこの本に掲載したということは、著者はルーテル派の立場に立っている(あるいは代表している)、という主張の表明とみなしてよいのだろうか?|[[ルーテル教会の信仰 日本福音ルーテル教会>http://www.jelc.or.jp/belief/]] &br()&br()[[ ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会>http://www.jelc.or.jp/belief/belief2.html#belief_stitle5]]&br()&br() [[Apostles' Creed Catholic Encyclopedia>http://www.newadvent.org/cathen/01629a.htm]]&br()&br()[[The Three Ecumenical or Universal Creeds - Book of Concord>http://bookofconcord.org/creeds.php]]&br()&br()[[The Large Catechism The Apostles' Creed - Book of Concord>http://bookofconcord.org/lc-4-creed.php]]&br()&br() [[Faith -Emmanuel Lutheran Church, Missouri Synod>http://emmanuelontheridge.com/Faith.html]]&br()&br() [[The Apostles' Creed - Evangelical Lutheran Church in America>http://www.elca.org/What-We-Believe/Statements-of-Belief/The-Apostles-Creed.aspx]]&br()&br() [[Apostles' Creed Westminster Presbyterian Church >http://www.solochristo.org/info_apostlescreed.asp]] &br()&br() [[The Apostles' Creed - United Methodist Church >http://gbgm-umc.org/umw/bible/apcreed.html]] |
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2014-04-10T01:30:22+09:00
1397061022
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間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}が&bold(){容量オーバーになった}ため、聖書篇を分割して作成。
2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者や読者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* 聖書についての間違い
- 目次
-1 総論
-2 旧約
-3 [[新約その1>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] [[新約その2>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]
** 総論
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p182|「「地獄」というものは、ありません。&bold(){聖書には書いていない}。火で焼かれる。」|「地獄は永遠か」という設問は古くからキリスト教で問われてきた問題ではあるし、「地獄」の意味についても諸説あるが、聖書には「地獄」の単語は書かれている(本当に聖書を読んだのか?)。&br()訳語の問題はある。γέενναとᾍδηςにつき、正教会訳では両方「地獄」の漢字を当てるが(但しルビで訳し分けている)、他方、新改訳聖書はそれぞれ「ゲヘナ」「ハデス」と訳している(但し新改訳聖書を使用する諸教会が「地獄は無い」と主張しているわけではない)。橋爪氏は新改訳聖書しか読んでいないのかもしれないし、「『地獄』とは誤訳だ」と言いたいのかもしれない。しかしだとしたらきちんとそう言うべきだ。&br()「聖書には無い」などと断言する前に、日本聖書協会訳の新共同訳聖書と口語訳聖書で検索をかけてみる事くらいは、学者としてやっておくべきではないか。|[[新共同訳聖書の「地獄」検索結果>http://www.bible.or.jp/vesearch/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E5%9C%B0%E7%8D%84]] &br() &br()[[口語訳聖書の「地獄」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=jc&keyword=%E5%9C%B0%E7%8D%84]]|
|p244, p246, p247|「&bold(){まず}聖霊は、使徒行伝に出てくる」(p. 244) 「でも、&bold(){イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる}。ともかく、使徒行伝には聖霊の記述がある」(p. 246) 「なぜ聖霊が必要かというと、&bold(){パウロの書簡を神の言葉(聖書)」にするため}なんです」(p.247 | 彼の記述や論理だと聖霊が登場するのは使徒行伝が最初のようだが、使徒行伝が最初ではない。旧約では意見が分かれるが、ギリシャ語訳ユダヤ教聖書(いわゆる「70人訳聖書」)にも新約聖書と同じ単語で「聖霊αγιον πνευμα」が出てくる(詩51:13;イザ63:10,11;ダニ5:12;6:4etc)。(ヘブライ語からだと聖霊とは訳せないが。明らかに「聖霊」となる語を新約から探しても、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ 1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ 3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20.22)、その他ヨハネ14:15-17,26, 16:5-15など。ヨハネ14:15-17,26, 16:5-15 は助け手(パラクレーシス)たる聖霊の役割についても詳しく言及されている。聖霊のこの役割に触れないのも不可解。あるいは不勉強。|[[新共同訳聖書の「聖霊」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E8%81%96%E9%9C%8A]] &br() &br()[[口語訳聖書の「聖霊」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=jc&keyword=%E8%81%96%E9%9C%8A]]|
|p291|「聖書が成立したあと、&bold(){公会議で聖書の読み方(学説)を決めた}が、それも含めて聖書と考える」|そのような聖書の定義をしている教派は無い。公会議で定められた信条は聖書に収められていない。教会が聖書の正典を定めたことを指しているのだろうか?&br()聖書につきカトリックでは旧約46巻・新約27巻、計73巻編成の文書を正典とし(ウルガタ訳聖書の影響)、正教では旧約49巻、新約27巻を正典とし(70人訳ギリシア語聖書)、プロテスタントは旧約39巻、新約27巻、計66巻を正典とする(旧約をマソラ本文のあるものに限定したため)。また、その他の正典を定める教派もある。&br()しかし、正典の編纂と考えてもおかしい。なぜなら、プロテスタントは公会議で聖書の正典を定めたわけではないからである。&br()カトリックは「聖書と聖伝」とし、プロテスタントは「聖書のみ」(聖書自身が聖書であることを証する限りにおいて)、正教は「聖伝は聖書を含む」と考えるが(聖書も公会議も聖伝の構成要素)、「公会議で聖書の読み方を決めた」教派は無いし、「公会議の内容も含めて聖書とする」教派も無い。|[[教え-聖書:日本正教会 The Orthodox Church in Japan>http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie02.html]] &br() [[Holy Scripture In The Orthodox Church "The Bible" Compiled by Father Demetrios Serfes>http://www.serfes.org/orthodox/scripturesinthechurch.htm]] &br() [[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: The Bible>http://www.newadvent.org/cathen/02543a.htm]] &br() [[Canon of the Old Testament>http://www.newadvent.org/cathen/03267a.htm]] &br() [[Canon of the New Testament>http://www.newadvent.org/cathen/03274a.htm]]|
** 旧約
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p17|「『メシア』はヘブライ語で、&bold(){救世主という意味}」|ヘブライ語での意味は「油つけられし者」(「メシア」のギリシャ語訳である「キリスト」も同様の意味)。「ヘブライ語で」などと言わず、「メシアとは救世主を意味するようになった単語です。」などという説明であれば正解だったが。&br()|[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Messiah>http://www.newadvent.org/cathen/10212c.htm]]&br() &br()[[Христос(Краткий церковнославянский словарь)>http://old_church.academic.ru/1790/%D0%A5%D1%80%D0%B8%D1%81%D1%82%D0%BE%D1%81]]|
|p29|「たとえば、&bold(){王妃のイザベラ}がバアル神を拝んだので、預言者エリヤがバアルの祭司四百五十人を殺害した事件(『列王記上』18章)は有名です」|どうしてイゼベラだけを取り上げるのか、理解に苦しむ。『列王記上』16章31節によれば、王アハブが「進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」とある。そもそも、エリヤが「バアルの祭司四百五十人」を殺したのはイザベラがバアル神を拝んだから、というまとめは、読解力の欠如を疑わせる。もっとも、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような理屈を理解しろと言うのであれば、話は別であるが。&br()なお、ここで橋爪氏は「バアルの&bold(){祭司}」という言葉を用いているが、正確には「預言者」である。55頁及び109頁に見られる誤り(下記参照)のため、つまり、自説に都合良くするためにバアルの預言者という言葉遣いを避けたのであろう。|[[列王記上16:31>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=1ki.old&keyword=%E5%BD%BC%E3%81%AF%E3%83%8D%E3%83%90%E3%83%88%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%83%A4%E3%83%AD%E3%83%96%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%81%AE%E7%BD%AA%E3%82%92%E7%B9%B0%E3%82%8A%E8%BF%94%E3%81%99%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%AF%E6%BA%80%E8%B6%B3%E3%81%9B%E3%81%9A&flag_back=1]]&br()[[列王記上18章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ki&chapter=18&mode=0]]|
|p33|「さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。(中略)第一は、儀式を行う。牛や羊などの犠牲を献げるのですね。犠牲の献げ方にもいろいろあるが、&bold(){特にヤハウェに献げる場合には、「全焼の供儀」といって、黒焼きにした}。」|動物だけが捧げ物ではない。まるで他の祭儀は神に捧げていないかのような口ぶりだが、灌祭(ブドウ酒を捧げる)も素祭(種なしパンを捧げる)も神に献げられるもの(祭司は分け前にあずかるだけ)。|[[レビ記「素祭」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=jc&book=lev.old&keyword=%E7%B4%A0%E7%A5%AD&flag_back=1]] &br() &br() [[民数記「灌祭」検索結果」>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=jc&book=num.old&keyword=%E7%81%8C%E7%A5%AD&flag_back=1]]|
|p49-50|「ニネベはアッシリアの首都で、そんな異教徒の国のど真ん中で、ヤハウェの言葉を伝えるなんて、&bold(){自殺行為です。ヨナは嫌だから}、反対の方向に向い船に乗った」|確かにヨナは神の言葉に従わなかった。しかし、ニネベで「ヤハウェの言葉を伝える」のが「自殺行為」で、それが嫌だから逃げた、とは、ヨナ書の1章にもどこにも書かれていない。むしろ、4章2節から、神の命令通りにニネベの人びとに神による災いを伝えても、神が思い直し、結果として自分の預言活動が無駄になることが嫌で逃げた、と考えられよう。|[[ヨナ1章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jon&chapter=1&mode=0]]&br()[[ヨナ4:2>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=jon.old&keyword=%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D&flag_back=1]]|
|p50|「でも、沖合に出たら大嵐になって、&bold(){『こいつのせいだ』と、ヨナは海にほうりこまれた}」|ヨナ書の記述と異なる。ヨナは自分から申し出て海にほうりこまれたのである。|[[ヨナ1:12>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=jon.old&keyword=%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%B6%B3%E3%82%92%E6%8D%95%E3%82%89%E3%81%88%E3%81%A6&flag_back=1]]|
|p50|「ヨナはニネベが破壊されるのを&bold(){楽しみにしていた}のです」|ヨナは「ニネベが破壊されるのを楽しみにしていた」、とはどこにも書かれていない。神が思い直したのが腹立たしいのである。他の箇所でもそうであるが、橋爪氏は聖書を勝手に書き換え、自分の理屈に合うように読む傾向がある。|[[ヨナ4:2>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=jon.old&keyword=%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%A0%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D&flag_back=1]]|
|p50|「ヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが&bold(){栄えるのを見るのがうれしい}、と答える。」|あまりに元の文章からかけ離れている。元は「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。」(口語訳聖書ヨナ書4:11)&br() &br() 「栄える」も「うれしい」も書いておらず、疑問文。ヨナ書は神からのヨナへの問いかけであるこの疑問文で終わっている(聖書に、神からの問いかけ・疑問文に人がどう答えたかを敢えて書かないことで、読者自らが自分の答えを出すことを期待していると、教派によって解釈し得る箇所が時々出てくる。)。「惜しむ」という単語は、直前でヨナが日よけのとうごまの木が枯れたことを惜しんでいることと対応している。この文章が重要なのは、「異邦人の人々」に神の配慮が行き届く信仰内容が示されているにとどまらず、「家畜」という&bold(){動物にまで}神の配慮が行き届くことが示されてもいることにもある。&br() &br() これらの意義が全く抜け落ちてしまう橋爪氏の紹介文は、もはや国語でいう要約の態をなしていない。|口語訳聖書ヨナ書4:11&br() &br() "The Orthodox Study Bible: Ancient Christianity Speaks to Today's World" p1023, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) |
|p53|橋爪「ヤハウェは、ノアに語りかける。神の声を聞いたノアは、預言者みたいなものですが、ノアの一族以外の人びとは洪水で全滅していますから、人類の一部分に語りかけたわけではない。ノアの子孫が地上に拡がったあと、ヤハウェは今度は、アブラハムに語りかけた。&bold(){人類の一部に語りかけたというのは、アブラハムが最初}でしょ?」大澤「言われてみると確かにそうですね。」橋爪「これが、イスラエルの民(のちのユダヤ民族)の出発点になる。」|創世記4:6で、神はカインに語りかけている。さらにノアについても、まだ洪水の起きる前に話しかけているから(創世記6:13)、やはり「一部に」語りかけている。口語訳聖書で15頁にも満たない創世記の冒頭部分すら、橋爪氏も大澤氏も碌にチェックしていない。&br() &br() ちなみに「語りかけられた」だけでは神の民の出発点にはならないことは、カインがその後どうなったかを見れば明らか。こうして橋爪氏と大澤は、既に出発点の意義から、テーマとなっている一民族について理解していない。|創世記4:6&br() &br() 創世記6:13|
|p54|「イスラエルの民は…エジプトに移り…人数が増えて&bold(){六十万人}にもなった。それが、モーセに率いられて、エジプトを脱出した」|正確には、エジプトを脱出した「一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」のである(出エ12:37。更に民11:21参照)。|[[出エジプト記12章37節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=exo.old&keyword=%E5%85%AD%E5%8D%81%E4%B8%87%E4%BA%BA&flag_back=1]]&br()[[民数記11章21節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=num.old&keyword=%E5%85%AD%E5%8D%81%E4%B8%87%E4%BA%BA&flag_back=1]]|
|p55|「モーセのあとにも、預言者が大勢現れ、ヤハウエはイスラエルの民に語りかけ続ける。&bold(){アブラハムの子孫以外には、預言者が現れない}。この意味で、彼らは、神に選ばれた民族なのです」|ユダヤ人以外でヤハウェから語りかけられた預言者として、バラムがいるので、誤り。|[[民数記22>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=22&mode=0]]、[[23>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=23&mode=0]]、[[24章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=24&mode=0]]|
|p68|「『ヨブ記』は、さっきの『ヨナ書』と同じく旧約聖書の&bold(){「諸書」の一つ}です」|『ヨブ記』が「諸書」の一つであることは正しいが、『ヨナ書』は「後の預言者」に分類される。|[[和田幹男 プロテスタントとカトリックにおける旧約正典の比較>http://mikio.wada.catholic.ne.jp/CANON_P11.html]]|
|p69|「(ヨブは)&bold(){友達もなくしてしまった}」|批判した相手は友達ではない、と考えているのだろうか。個人的にそのように考えて振る舞うのは勝手だが、ヨブ記にあてはめるべきではない。ヨブを批判した三人が批判し終わった後でもヨブにとっては友人であり続けた、と考えられていることは、42章10節「ヨブが&bold(){友人たち}のために祈った」から明らか。|[[ヨブ42:10>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=job.old&keyword=%E3%83%A8%E3%83%96%E3%81%8C%E5%8F%8B%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB&flag_back=1]]|
|p69|「わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、&bold(){やっつけた}んだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も&bold(){退治した}」|ヨブ記で神はそのようなことは言ってはいない。誰がリヴァイアサンを鉤で引っかけられるか」、「お前ヨブはベヘモットを捕らえられるか」とは語っているが。尤も、橋爪氏がヘブライ語からそのように読めると主張するのであれば話は別であるが(ヘブライ語からそのように理解するのは大変難しいが)|[[ヨブ40章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=job&chapter=40&mode=0]]|
|p69|「ヤハウェも、&bold(){ちょっとやりすぎたかなと反省した}」|そのようなことはどこにも書かれていない。|(各自ヨブ記を読まれたし)|
|p75|「エデンの園には、食べ物が十分にあって、&bold(){働かなくていい}」|創世記2章15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあるが、この「耕し」はヘブライ語で「働く」を意味する単語である(LXXでも同様)。エデンの園でも人間は働いていたのである。|[[創世記2章15節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=gen.old&keyword=%E4%B8%BB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%A5%9E%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%82%92%E9%80%A3%E3%82%8C%E3%81%A6&flag_back=1]]&br()&br()[[ヘブライ語版創世記>http://biblos.com/genesis/2-15.htm]]&br()&br()[[ギリシャ語版創世記>http://apostolic.interlinearbible.org/genesis/2.htm]]|
|p75|「この二つの樹の実を食べてはいけないよ、それ以外の実は食べてもいいけど、と言い置いて、&bold(){神様は(楽園から)出て行ってしまうわけです。}」|&bold(){どこに「出て行った」というのか?そのようなことはどこにも書かれていない}。「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。&br()&br()なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、&bold(){橋爪氏の一貫した誤解}であることが判る。→下記p76と、[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]](p312)|創世記2章参照&br()&br()[[創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解>http://togetter.com/li/641734]]|
|p76|「で、&bold(){神の留守}に、蛇が出てくる。蛇はサタン。反対者ですね。イブに&bold(){「知恵の実を食べてみないか、きっとおいしいよ」とそそのかす。}」|&bold(){「神の留守」「食べてみないかとそそのかす」そのようなことはどこにも書かれていない}。蛇の誘惑はより狡猾なものであった。イブは自らの意思で食べたのである。またイブに勧められたアダムも、自分の意思で食べている。蛇は「食べたらどうだ」とは言っていない。この後、神からの問いかけに対して人が責任転嫁を行っていることが、神の前に罪を犯した人間の好ましくない有り様であると捉えることが、殊に正教会、カトリック教会における重要な告解理解に繋がるのであって、瑣末な間違いではない。&br()&br()ここも、「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。&br()&br()なおここから先は「細かい間違い」かもしれないが、橋爪氏は「蛇はサタン。」と述べているが、そう捉えない教派・解釈例もあるので、特定教派もしくは特定思潮の立場をとらない書籍において簡単に断言してしまうのは、厳密には不適当もしくは偏向である。|創世記3章参照&br()&br()『旧約聖書略解』p14, 日本基督教団出版局, 1986年5月10日 40版&br()&br()"The Orthodox Study Bible: Ancient Christianity Speaks to Today's World" p6, p8, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) |
|p80|大澤「だいたい、&bold(){理由も言わずに}ただ」知恵の樹と生命の樹の実を「『食べてはいけない』なんて言われたら」(橋爪氏、これを否定せず)|理由は神によって語られている。「食べると必ず死んでしまう」からである(創世記2章17節及び3章3節参照)|[[創世記2章17節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=gen.old&keyword=%E6%B1%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84&flag_back=1]] [[3章3節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=gen.old&keyword=%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%89&flag_back=1]]|
|p84|大澤「ところが神については、逆で、『俺は神を見た』と言ってしまえば、それはほんものの神ではなくて、偶像になってしまいます。神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。&bold(){預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない}」(橋爪氏、これを否定せず)|大澤氏が念頭に置いている聖書箇所は恐らく出エジプト記33章20節以下及びヨハネの福音書1書18節、ヨハネの手紙一4章12節などであろう。なるほど、出エジプト記33章20節には「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(新共同訳)とあり、モーセが見れたのは神の後ろ姿だけであったと述べられている。しかし、大澤氏(と恐らく橋爪氏)は出エジプト記33章11節に「&bold(){主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた}」とあることも、更に同書24章9節以下でモーセのみならず「&bold(){アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老}」が&bold(){イスラエルの神を見た}と語られていることも無視している。更に言えば、創世記32章31節で&bold(){ヤコブも神を見た}と語られている。士師記13章22節では、&bold(){マノアとその妻}が「神を見てしまった」ことが語られている(尤も、神とマノアが呼ぶ存在は、地の文では「神の御使い」と呼ばれているが)。&br()案外と神を見た人間はいるのである。|出エジプト記33章11節以下、同24章9節以下、創世記32章31節、士師記13章22節|
|p93|「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の&bold(){『レビ記』}に載っています」|契約の箱の構造について詳しい説明があるのは、『レビ記』ではなく、『出エジプト記』の25章10節以下である。&br()&br()なお、どの刷からかは不明であるが、『出エジプト記』と修正されていることを付記しておこう。なるほど、誤った情報が正しい情報に訂正されたのは喜ばしいことではあるが、版を改めるではなく内容を修正するというのは、業界の慣習かもしれないが、問題であると思われる(これは著者にではなく、講談社に対する批判)。|[[出エジプト記25章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=exo&chapter=25&mode=0]]|
|p100|「サラが亡くなったとき、墓地が必要になって、ブドウ畑の隅っこでいいから売って下さいと、(アブラハムは)地元民に交渉するのですが、&bold(){なかなか売ってくれない。}」「寄留民の土地所有は認められていなくて、墓地なら例外的に取得できたのです。ヤハウェに約束の地を与えられたというものの、実態はこんなものだった。そうやって&bold(){苦労のすえ墓地を手に入れたと、いかにも自慢そうに『創世記』は記しています}。」|そのようなことは創世記に書かれていない。むしろ「じゅうぶんな対価を払って」購入を希望するアブラハムに対し、地元民(ヘテびとエフロン)は「&bold(){わたしはあの畑をあなたにさしあげます}」と提案している(23章11節)。&br() &br() それに対してアブラハムは「代価を払います」と述べ、無償で譲渡されることを断わっている。そこでエフロンは畑の価格を「銀400シケル」と述べるが、ここでもエフロンは「売ります」とは言っておらず、とにかく「あなたの死人を葬りなさい」とだけ言っている。これに対し、アブラハムはエフロンに対して銀400シケルを量って渡し、&bold(){無償譲渡の申し出を断って購入}している。&br() &br() 「『創世記』にはこう書かれているが、実態は某説によればこんなものだったろう」といった言い方なら場合によっては成立するかもしれないが、結局「自慢そうに『創世記』は記しています。」の文言で、単純な誤りになってしまった。&br() &br()他の個所でも同種の傾向を有するものがあるが、「アブラハムの寄留民としての実態はこんなもの」という&bold(){橋爪氏の考える結論がまず先にあり、その結論に合わせて前提となる事実(記述内容)が捻じ曲げられている}のが、この誤りの本質的問題である。|創世記23章|
|p109|「預言者。これは&bold(){一神教にしか、考えられない存在}です」|所謂「多神教」にも預言者がいたとは、たとえば列王記上18章などに明記されている(「バアルの預言者」「アシェラの預言者」)。なお、「バアルの預言者」「アシェラの預言者」という表現の「預言者」に当たるヘブライ語名詞は、ヤハウェの「預言者」を指す際に用いられるのと同じものである。|[[バアルの預言者>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=1ki.old&keyword=%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85&flag_back=1]]&br()[[アシェラの預言者>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=1ki.old&keyword=%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%81%AE%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85&flag_back=1]]|
|p146|『列王記下』4章42~44節では、エリシャが「わずかな食糧で」「百人を&bold(){満腹させた}」奇跡が語られていると橋爪氏は語る。|満腹したとは書かれておらず、「食べ残した」と書かれている。なるほど、満腹したから食べ残したのであろうが、エリシャの奇蹟はイエスの奇蹟との関連で言及されており、そのイエスの奇蹟では、人びとが食べ残した点に強調点が置かれている記事もあるのだから、正確に語るべきである。|列王記下4:43、44節及びマルコ8:19-21参照|
|p151|「イエスは、預言者として、活動した。預言者だと思った人が大勢いた。&bold(){だから}、「エリヤの再来」と言われたのです。ちなみに、預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたと信じられたので(『列王記下』2章11節)、再来してもおかしくない」。|イエスは預言者と考えられていた、というのは福音書に記されているので(マルコ6章15節、8章28節等)、イエスを預言者と考えた人びとが実際にいたかもしれない。しかし、イエスは預言者として活動した、&bold(){「だから」}、エリヤの再来と言われた、という言葉は、「再来のエリヤ」思想を無視していると思われる。イエスをイザヤでもなくサムエルでもなくエリヤだとする考えの背後には、終末の直前にエリヤが再来するという思想があるからである(マラキ書3章1、23-24節、シラ書48章10節)。つまり、イエスは終末の接近を告知しており、それが終末直前に再来するエリヤという伝承を思い出させた、だからイエスを再来のエリヤと同一視した人がいた、と考えられるのである。預言者として活動したからではない。|マルコ6:15&br() 8:28等&br() &br() マラキ3:1、23-24&br() &br() シラ48:10|
|p153&br() &br() p167|「イエス・キリストは『神の子』だ、という考え方です。…これはもう、&bold(){ユダヤ教の考え方ではない}」&br() &br() 「ユダヤ教には、…&bold(){神の子という考え方はなかった}と思う」|創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節に「神の子」という表現が見られる。従って、イエスが神の子であるという主張はユダヤ教の考え方であってもよく、仮に問題があるとすれば、ユダヤ教の観点からイエスが神の子と言えるかどうかであろう。|[[新共同訳聖書「神の子」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%90]]|
|p158|大澤「(人の子の)もうひとつのとらえ方として、&bold(){聖書学の田川建三さんが}次のようなことを書いていました」|この後に大澤氏が語るアラム語での「人の子」理解は、『イエスという男』(三一書房、1980年、333頁)からのものであり(引用元を書かないのは問題である)、田川氏の本からの要約引用にそれほど間違いは無い。しかし、田川氏は自身の「人の子」理解を「主としてC・コルペによる」と明記しているのだから、大澤氏はこの点まで引用しておく、あるいはC・コルペの研究に目を通し、C・コルペ氏の主張と語るべきであろう。|田川建三『イエスという男』三一書房、1980年|
|p158-9|大澤「『人の子』と言えばメシアのことだなというのは、&bold(){当時のユダヤ教に精通している人たちには通じた}んだと思うんですね。…、もちろんイエスは旧約聖書に精通しているわけだから、『人の子』と言えば、旧約聖書に由来する救世主という含みももちうることがわかっていたはずです」|「人の子」はイエスの生前のユダヤ教においてメシア的称号であったという学説に対しては、様々な批判が寄せられていることを考えれば、このように簡単には言えない。尤も、本書が新書であること、そして大澤氏も橋爪氏も聖書学者ではないことを考えれば、このような単純化はしょうがないかもしれない。|上村静「メシア的称号としての『人の子』の起源」『イエス―人と神と』関東神学ゼミナール、2005年、pp105-135|
|p188|「動物も&bold(){ひとつがいずつ}箱舟に乗り込んで、助かった」|創世記7章3節に従って正確に言えば、「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつである|[[創世記7:3>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=7&mode=0]]|
|p228|「カインは…弟のアベルを…&bold(){刺し殺し}てしまった」|これは創世記4章8節のことであるが、そこでは「刺し殺した」とは書いていない。|[[創世記4:8>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=gen.old&keyword=%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AF%E5%BC%9F%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%AB&flag_back=1]]|
** 新約
当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]]を参照
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2014-04-10T01:27:57+09:00
1397060877
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間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}が&bold(){容量オーバーになった}ため、神学篇を分割して作成。
2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
** 神学
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p16|「ユダヤ教の神は、ヤハウェ。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。」|まず根本的な問題として、イエス・キリストは「真の神・真の人」として神性人性の両方が認められて信仰されている、ということを橋爪氏は本書において一切述べない。橋爪氏がどのようにイエス・キリストを考えようと自由だが、「キリスト教について理解を深める」ことを目的とするのであれば、「キリスト教においてどう信じられているか」を述べるべき。&br() &br()イエス・キリストは「真の神・真の人」なのだから、「神がイエス・キリストに話しかける」というのは不十分な表現であり(「他の位格が第二位格たるキリストに話しかける」というのなら解るが)、「神でもあるイエス・キリストが語る」も触れなければ、キリスト論につき半分も語っていないことになる。&br() &br()なお以下はハードルが高い問題ではあるが、キリスト教において「ヤハウェ=第一位格たる父なる神」という見解ばかりでは無い。正教会においてはビザンティン・イコンにおいて、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)の周囲にギリシャ語に転写された"YHWH"が書かれることがあり、イエス・キリストが世々の前から「あった」ロゴス(ことば・神言・かみことば)であったことを西方よりも強調する東方神学の傾向を反映している。&br() &br()橋爪氏の本を読むことは、「キリスト教を理解出来る」どころか、キリスト教美術に触れた時にさらに混乱の種になるだけだということが示されている。|[[The Doctrine of the Orthodox Church: The Basic Doctrines>http://orthodoxinfo.com/general/doctrine1.aspx]]|
|p23|「自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。」|橋爪氏の解釈によれば、「神が造ったものには価値が無い」と信じることが「正しい」ことで「基本の基本」らしい。&br() &br() もちろんそんな理解は正教会、カトリック、プロテスタント全て含めて、キリスト教には無い。(教派によって小さくない解釈の違いはあるが、それこそ基本的には)「神の似姿として創られた人間」がキリスト教の人間観の基礎を成す。|[[世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan>http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/sekaikan01.html]]&br() &br() [[3課 キリスト教の人間観(市川大野キリスト教会;日本バプテスト連盟)>http://www.chapenet.com/details7006.html]]|
|p47&br() &br()&br() &br()&br() &br() p48|大澤「『創世記』には原罪の起源のようなものはないんですか?」橋爪「ないんです。」&br()大澤「禁断の木の実を食べたという話は『創世記』に入っていますよね。これはじゃあ、必ずしも原罪の観念とは関係がない?」&br()橋爪「関係ない、です。」&br() &br()橋爪「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。」|47頁のやりとりは文脈が曖昧であるため、ここで両者がユダヤ教について語っているのかキリスト教について語っているのか、不明であるが、仮にキリスト教についてこのように語っているのであれば、非常に問題であると言えよう。と言うのも、カトリック教会は原罪を「人祖(アダムのこと)の罪。人の世に苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、そして死が入ったもの」とし、プロテスタントでは「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」などと説明されるからである。このように、西方神学で最も一般的な理解では、原罪とは「アダムとイヴから受け継がれた罪」であり、創世記が「原罪の観念と関係が」あることは明らかである。&br() &br() 他方、正教会はアウグスティヌス以降の全的堕落説を否定しており「原罪」という語彙の使用そのものに慎重もしくは否定的であるが、正教会においても「人間そのものが間違った存在」などとは言わない(むしろこうした全的堕落の考え方を否定する)。&br() &br()いずれの教派でも「人間そのものが間違った存在」などと言わないし、原罪についてこのような定義をすることもない。&br() &br()橋爪氏がどのような珍奇な原罪理解を持とうと、それを講釈しようと自由であるが、それを「欧米理解に不可欠なキリスト教理解」と銘打つのは、看板に偽りありであろう。|『カトリック教会の教え』p53 カトリック中央協議会 (2003/6/25)&br() &br() 『キリスト教大事典 改訂新版』 p390 - p391 教文館(第4版)&br() &br()Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) 『キリスト教神学基本用語集』p87 - p88 2010年10月20日 ISBN 9784764240353 &br() &br() [[教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan>http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie03.html]]|
|p116|「これはね、人間と神の共同作業になるんです。(中略)共同作業だから、神と人間のあいだに対等なコミュニケーションがあるとも言える。神は圧倒的に偉大で、人間はとても弱いのだけれども、共同作業をしているからには対等でもある」|橋爪氏が自分で言っていることと矛盾する。人間は神に対して発言権がない(p184, p185)、と言いながら、対等なコミュニケーションがあるとする。論理が破綻している。そもそも、神と人間は「対等」ではない。そしてまた、神と人との「共同作業」を認めるなら、カルヴァン的予定説と矛盾する。そこでまた、橋爪氏の論理は破綻する。|論理の破綻|
|p145&br()p147&br()p148|橋爪「奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、復活ですね。」「復活の奇蹟は、イエスが死んでだいぶ経ってから、いまのようなかたちで信じられるようになったと思われます。」「キリスト教の奇蹟は、イエスがキリスト(メシア)であり、神の子であることが核心で、奇蹟はそれを証明するもの。重要だけれど、&bold(){枝葉に過ぎない}。」「奇蹟を信じにくい人は、無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある。」&br()大澤「考えてみれば奇蹟というのは、本当に信じるべきものの傍証みたいなものですよね。」「奇蹟自体は偶有的な、&bold(){付録}みたいなものということですね。」「奇蹟それ自体を超能力として信じるかどうかは、橋爪さんのおっしゃる通り、二次的なことでしょうね。」|&bold(){復活は荒唐無稽←そう主張するのは個人の自由}&br()&br()&bold(){キリスト教において復活は枝葉末節であり付録←誤り}&br()&br()橋爪氏や大澤氏が復活をはじめとする奇蹟を信じようと信じまいと、どう主張しようと自由である。しかし&bold(){「キリスト教ではどう考えられているか」に一切言及せずに「最強のキリスト教入門書」を名乗るのは看板に偽りあり}だろう。&br()&br()実際には復活は、「重要だけど、枝葉に過ぎない」「付録」どころか、&bold(){東方教会(正教会・非カルケドン派)、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)の全てで、}(神学的見解をはじめとする微妙な温度差はあるものの)&bold(){重要な信仰内容の一つを構成しており、多くの教派・信者が最も重要な信仰内容に数えている。}たとえば名古屋ハリストス正教会の司祭ゲオルギイ松島は「復活信仰の無いキリスト教はあんこの入っていないあんパンを食べるようなもの」と評している。出典にあるように、橋爪氏の所属しているルーテル教会も復活信仰を重要なものとしており、その例外ではない(はずなのだが)。そもそも&bold(){日曜日に教会に信者が集まるのは、日曜日にキリストが復活したことに由来}しており、その重要性が表れている。&br()&br()復活につき事実として捉えない信者・教会も居るには居るが、全体から見れば少数派である上に、事実ではないと捉える信者も「枝葉末節」「付録」とは考えない。|[[ハリストス復活! 実に復活!「トマスとともに」名古屋教会司祭松島執筆メッセージ>http://www.orthodox-jp.com/nagoya/thomas.htm]]&br()&br()[[カトリック西千葉教会説教倉庫2008年 3月23日 復活の主日>http://homepage2.nifty.com/tecum/BNyear/2008/bnyear080323.html]]&br()&br()[[復活日(イースター)礼拝のご案内 - 静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)>http://d.hatena.ne.jp/peterochurch/20100317/1268790169]]&br()&br()[[キリストの復活六本木ルーテル教会>http://www.roppongilutheran.org/ruteru/tag/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%BE%A9%E6%B4%BB/]]&br()&br()[[神戸改革派神学校 校長 市川康則による「信仰直言『死人の復活~あり得ん?』」>http://www.christ-hour.com/archive/view_detail.php?select_id=173]]&br()&br()[[振り向く信仰(二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨、石川和夫牧師)>http://www006.upp.so-net.ne.jp/nagayama/020331.html]]|
|p184, p185|「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」|極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視している。また正教会は「共働」概念を採る。&br() &br() なお上述の通り、この箇所の橋爪の見解は、p116で述べている内容と矛盾している。|[[世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan>http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/sekaikan01.html]] &br() &br()[[The United Methodist Church Our Wesleyan Theological Heritage >http://www.umc.org/site/c.lwL4KnN1LtH/b.2310047/]]|
|p245, p246|「聖霊は、大澤さんの言うように、ネトワークや相互感応みたいな作用」「(聖霊は)神からのもの」「人と神とをつなぐのが聖霊」「人々と神との、唯一の連絡手段が、聖霊」|少なくとも伝統的なキリスト教では、聖霊は独立の位格(イポスタシス:ヒュポスタシス)たる真の神として理解されている。「神からの【もの】」という一種の従属説は異端として退けられる。ゆえにもちろん「作用」「手段」としては理解されていない。&br() &br() 橋爪氏のこの説明と理解では、「聖霊は神ではない」ことになる。三位一体を取るキリスト教の大多数は、もちろん聖霊を神とみなすし、三位一体を取らないまま、聖霊を神とみなす教派もある。|[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Holy Ghost>http://www.newadvent.org/cathen/07409a.htm]]参照。「作用」「手段」に類する表現はどこにもナシ|
|p256|「アルメニア教会はカルケドン公会議に参加しなかったので、通常の三位一体説をとっていません」|アルメニア教会も三位一体説はとっている。議論が分かれたのはキリスト論(Christological controversy)。そもそもアルメニア教会というのは一組織名であって、教理教義を論じるのであれば「非カルケドン派」という枠組みが妥当。|[[Orthodox Unity - Statement Index>http://www.orthodoxunity.org/statements.html]]内、[[Relations with the Eastern Orthodox Churches>http://www.orthodoxunity.org/state06.html]]より "&italic(){Concerning the Christological controversy which caused the division, we...}" (Statement by the Oriental Orthodox Churches, Addis Ababa, Ethiopia, 1965 )|
|p312|「一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて」|&bold(){どこに出て行ったというのか?}そのような記述は聖書のどこにも無いし、どこの教会でもこのような事は言われない。&br()&br()「神がわれわれと共におられるからである。」(イザヤ書8章10節)&br()「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)&br()&br()これも、橋爪氏がどのような理解をしようと自由だが、「キリスト教を理解する」ための本であると売り出すのであれば、キリスト教での理解を述べるべきであろう。&br()&br()なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、&bold(){橋爪氏の一貫した誤解}であることが判る。→[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]](p75, p76)|[[イザヤ書8章10節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=jc&book=isa.old&keyword=%E7%A5%9E%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B&flag_back=1]]&br()&br()[[マタイによる福音書28章20節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=jc&book=mat.new&keyword=%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B&flag_back=1]]&br()&br()[[創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解>http://togetter.com/li/641734]]|
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2014-04-10T01:27:01+09:00
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間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html
参考外部リンク
-&bold(){[[「ゆかいな仏教」への批判 - Togetter>http://togetter.com/li/584868]]}
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}が&bold(){容量オーバーになった}ため、他宗教篇を分割して作成。
2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
&bold(){当ページで指摘されている、仏教・神道・イスラムについての無知・無理解は、キリスト教についての無知・無理解と同程度の酷さがある。この惨状でキリスト教と他宗教を比較する事が可能なのか疑問。結論に合わせてそれぞれの宗教で教えられている内容、および単純な歴史的事実を捻じ曲げてしまっている場面があることも問題である。}
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、神道、イスラームについての無理解)
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p63|「&bold(){仏教は、}言ってみれば、&bold(){唯物論です。}」|この台詞の後、「因果律」(死体のアミノ酸への分解、微生物に食われ、別の生命になるという、食物連鎖、生命循環)、「自然法則」があるだけで、誰かの意志があるわけではない、それが仏教の考え方であり、そうした法則を徹底的に認識することが仏教の理想であると、橋爪氏は述べる。&br() &br() 「唯物論」の定義にもよるが、基本的に仏教では「唯物論」として自分の見方を説明したりはしない(むしろ大概の場面で否定される)。仏教における「因果律」を「アミノ酸」など物質的な面だけに限定した上でのこの語り方は「仏教の見方」では有り得ないし、国語辞典レベルの誤り。こんな説明では、「唯物論」と「仏教」の区別が全く判らなくなる。そもそも橋爪氏も大澤氏も、仏教において「唯識」の用語があるということすら知らないのではないかと疑われる。&br() &br() また、因果律を「食物連鎖」「生命循環」と同列に並べている辺りは、一般常識レベルの誤り。&br() &br() つまり橋爪氏は、仏教も初歩的なレベルから碌に知らない。&bold(){ふしぎな仏教理解}と&bold(){ふしぎなキリスト教理解}を並べて、&bold(){二人でふしぎがっている}のが本書である。|[[これからの寺のあり方と仏教のあるべき姿>http://www16.ocn.ne.jp/~housyuji/sogi100.htm]]&br() &br() [[仏教の世界観 -真言宗のお経- 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺>http://www.horakuji.hello-net.info/BuddhaSasana/introduction/outlook.htm]] &br() &br() [[道元の『学道用心集』を読む>http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-102.htm]] &br() &br() [[【徹底研究】唯物論>http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/69b528c3e2b3c41eb6be0f65b5620ad4]]|
|p63-65|「神々は、それぞれ勝手なことを考えていますから、彼ら全員のまとまった意思などというものはない。これが、&bold(){多神教。これでは、神との対話などできない相談だ。}(中略)「ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから」「&bold(){Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。}」|&bold(){言うまでもないが神道、仏教、儒教にも祈りは存在する。}&br() &br()橋爪氏は独自の(キリスト教に限定して考えても、祈祷文を持つ教派に当て嵌めるには一部正しいものでしかない)勝手定義により、「この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。」と論じるが、この定義を認めたとしても問題がある。多神教についてたった二行で済ませて居るが、神道と言えば絶対に外せない&bold(){言霊}概念に一言も言及すらせずに「言葉によるコミュニケーションは不可能」としてしまうのは、「宗教社会学者」としていかがなものか?&br() &br() 橋爪氏による勝手定義自体にも無理があり、日本語「いのる」(語義:神仏に請い願う)の語源には諸説(「斎宣」「忌宣」「接頭語イ+ノリ(宣)」「息宣」)あるが、いずれも「Godとの不断のコミュニケーション」のみを意味する言葉として使われてきた歴史は確認出来ない。|[[神社本庁 祝詞について>http://www.jinjahoncho.or.jp/iroha/matsuri/index4.html]] &br() &br() [[韓国の宗教の歴史(KBS WORLD)>http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_aboutreligion.htm]] &br() &br() 前田 富祺 (編集)『日本語源大辞典』p141 小学館 (2005/2/26)|
|p273|大澤「&bold(){イスラム教は、誰がムハンマドの後継者かがかなりはっきりしている。}だんだん時間が経過すると、真の後継者が誰なのか、意見が分かれてしまうわけですが、少なくとも最初のうちは一義的に決まっていて、この点でもイスラム教はあいまいさがない。」|第4代正統ハリーファ(カリフ)アリーが暗殺されたのが661年。アリー系のイマーム:フサイン・イブン・アリーが殺されたのが680年(カルバラーの戦い)。&bold(){この時代の抗争が、今に至るまでイスラームにおけるスンナ派とシーア派という二大潮流の原因}になっている。いずれの前提も&bold(){高校世界史レベル}。&br()&br()大澤氏は「だんだん時間が経過すると」意見が分かれたというが、ウマイヤ家とアリー系の間で後継者の地位を巡る血で血を洗う抗争があったこの年間は、ムハンマドの死(632年)から50年と経っていない。&bold(){50年と経たずに後継者を主張する者同士が殺し合う状態を、「後継者がかなりはっきりしている」と表現するのは妥当ではないだろう。}&br()&br()大澤氏は「キリスト教には明確な後継者が居ない」とし、キリスト教よりもイスラムの方が後継者がはっきりしているという文脈で引用部を述べているのだが、キリスト教は少なくともイエスの死から50年足らずのうちに後継者争いで殺し合うような事はしていない。&br()&br()ここの問題点は二つ。まず「イスラムの方がキリスト教より合理的で解り易い」という&bold(){結論ありき}であり、その為には前提となる歴史的事実を一切無視する(もしくは知らない・調べない)こと。二点目は、本書の他の部分でも言えることだが、&bold(){年数・年代を碌に確認せずに「しばらく」や「だんだん時が経って」といった曖昧な表現を平気で使ってしまっている}こと。&br()&br()こうして読者は、スンナ派とシーア派に分かれているイスラムの対立の原因を理解することなく、イラン、イラク情勢も誤解させられることとなる。&br()&br()※「カルバラーの戦い」については「基本中の基本用語」とまでは言えない、との指摘がされたので補足しておくと、確かに山川の世界史B教科書にも世界史B用語集にも載っておらず、「カルバラーの戦い」は用語として「基本レベル」ではない。ただし2005年度センター試験問題には「カルバラー」の地名がフサインの死んだ場所としてシーア派住民の聖地となっている文脈に登場しており、「シーア派」の正答を要求する出題がなされている。シーア派が預言者の後継者を巡ってスンナ派と争った人々であることは、このセンター試験問題に簡潔にまとめられている。「イスラームでは後継者がはっきりしている」などといった認識が一体どのような前提から導き出されるのか「ふしぎ」である。|[[Battle of Karbalāʾ>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/312214/Battle-of-Karbala]]&br()&br()[[2005年度センター試験【世界史B】問題>http://www.jikkyo.co.jp/jikkyocenter/2005/pages/sekaishib_honshi_mondai.html]]|
|p276|「イスラム教徒が考えることは、まず、これはクルアーンに書いてあるか、&bold(){スンナに書いてあるか、}イスラム法的に正しいか」|「スンナ」という文書は無い。スンナとは、アラビア語では「慣行」「実践」といった意味の普通名詞であるが、イスラムにおいては特にハディース(預言者の言行の言い伝え)から導き出されるムハンマドの慣行を指すことがある(但しハディースとスンナの関係については、厳密にはイスラム内で議論百出する)。&br() 日本語で「慣行にこう書いてある」という言い方は出来ないのと同じ位奇妙な文章。&br() 右に挙げた参考文献の一つは同じ講談社現代新書だが、橋爪氏も大澤氏も同じ現代新書から出た同書は読んでいない模様。|[[Hadith and Sunnah - Two Different Concepts>http://www.understanding-islam.com/articles/sources-of-islam/hadith-and-sunnah-two-different-concepts-186]]&br() &br() [[The Meaning of “Sunna” in the Qur’an>http://www.quranicstudies.com/prophet-muhammad/the-meaning-of-sunna-in-the-quran/]]&br() 小杉泰『イスラームとは何か』(講談社現代新書)122頁、163頁、ほか|
|p312|「日本では工事をするのに必ず地鎮祭をするけれど、昔だったらそんなことをするぐらいなら、工事はしなかったんじゃないか。」|&bold(){最古の地鎮祭の記述は日本書紀にある。}地鎮祭後に工事という流れには、相当長い歴史がある。百歩譲って(橋爪氏はそのようなことをここで述べていないが)仮に地鎮祭が一般に普及したのは江戸時代とされることを意識した台詞だとしても、「工事はしなかったんじゃないか。」は完全に意味不明。開墾、都の造営が古くから広く日本でも行われている歴史的事実を思い起こせば十分だろう。なお、日本書紀にある最古の地鎮祭(とこしずめのまつり)の記述とは、&bold(){藤原京造営}時のものであり、当然大規模な工事のものである。&br()&br()つまり&bold(){地鎮祭も工事も両方古くから日本で行われている。}「~じゃないか。」といった憶測で出鱈目な入門書を書くのは学者としての責任が問われる。&br()&br()なお橋爪氏は同じ頁で、捕鯨と鯨油の照明利用をキリスト教徒限定のものと述べているが、日本でも鯨油は行灯や農薬に使われていた。橋爪氏は自説に都合よく宗教・歴史を捻じ曲げているが、その対象はキリスト教に限らず、日本史・神道にも及んでいる。こうして橋爪氏の著作はキリスト教に対する誤解のみならず、(細かい問題でではなく大局的に)&bold(){神道への誤解も招く}のである。|[[地鎮祭の歴史 - 西野神社 社務日誌>http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20051130]]&br()&br()[[地鎮祭のご案内 相模原市の神社 亀ヶ池八幡宮>http://www.kamegaike.jp/kitou/jitin.html]]|
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2013-11-04T00:18:51+09:00
1383491931
-
「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書紹介
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html
当ページでは、橋爪・大澤による「ふしぎなキリスト教」以外の、良質な入門書を紹介します(書籍紹介ページなので当ページは「ですます」調です)。
- 「ふしぎなキリスト教」が解り易いのだから、細かい少しの間違い(実際には量的に膨大、質的に最悪な間違いが沢山あるのですが)を気にせずに読んでもらえばいいじゃないか、と仰る方が結構巷間にみられますが、それはずっと良質な本を書いている他の人(実際に居ます)に失礼というものではないでしょうか。
- 批判者達は「もっと良質な本がある」事を知っているからこそ、批判しています。
- 一般日本人が「これだからキリスト教ってのはよく解らないんだよね(嘲笑)」という、結論が見えて居る内容の出鱈目な本ではなく、もっと真摯に「キリスト教ってどんな宗教なんだろう」と知りたい人に勧められる本を紹介して参ります。
- (管理人より)ウィキシステムは使いますが、本ページでは「外部リンクに挙げられているトゥギャッターで、複数の人の間で高い評価を得た本を挙げる」という基準を設けます。
* &font(green){総合入門書}
**『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784022617217
「ふしぎなキリスト教」を批判する人たちの間で複数から推されていたのがこれ。
外面的なところまでしか踏み込んでおらず、教派の違いを列挙するだけにとどまっていますので、それこそ専門家には深みの無い内容ではありますが、しかしだからこそ、「知ったかぶり」の無い、対象に誠実に取材した良書になっています。イラストも豊富で、各種考証が仕事で必要になる方にもお勧め出来ます。 &bold(){950円}という大変お手頃な価格も高評価。
**『知って役立つキリスト教大研究』(新潮OH!文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784102901335
の改訂増補版が上記『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) になります。
**『総説キリスト教―はじめての人のためのキリスト教ガイド』(キリスト新聞社) アリスター E.マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳) ISBN 978-4873955247
こちらは割りと本格的なキリスト教の総合入門書。
しかし、結構なお値段なので、図書館などのご利用もオススメします。
* &font(green){教派(宗派)について}
**『よくわかるキリスト教の教派 新装版』(キリスト新聞社) 徳善義和, 今橋朗 ISBN 9784873954974
キリスト教では、厳密には「宗派」ではなく「教派」といいます。。
八木谷氏の本とは違い、この本は、現在の日本にある教派につながる様々な流れを通時的に理解するのに役立ちます。
あと、分裂の歴史を持つプロテスタントの流れを追うのにも適していたり。
<注>日本における正教会の団体として、「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」についても記載されているのですが
正教における用語として不適切な「皇帝教皇説」なども挙げられていたりするなど欠点も見受けられます。
* &font(green){神学の入り口}
** 『キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)』(新教出版社) C.S. ルイス (著), 柳生 直行 (翻訳) ISBN 9784400520542
『ナルニア国物語』などで知られる作家、C.S. ルイスはキリスト教に関する著書を多く書いています。
特にこの本は定評のある本です。原題はMere Chrisitianity、つまり「ただのキリスト教」というタイトルなのですが、
日本語版は「キリスト教の世界」とか「キリスト教の精髄」とか、大げさなタイトルになってしまいます。
でも、それだけ、体験を通した信仰と、しっかりとした神学に裏付けられた本だからだと思います。
* &font(green){神学}
** 『キリスト教神学基本用語集』(教文館) Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) ISBN 9784764240353
西方教会についての用語が殆どで、東方教会については殆ど言及していないという弱点はありますが、逆に「東方についての知ったかぶり」はありません。「用語集」ですが著者は一人なので、「メソジストのフスト・ゴンサレスが一人で書いた」ことは念頭に置いた方がいいですが、お手頃価格で西方教会の神学用語のあらましを知ることの出来る良書です。
* &font(green){東西教会比較}
** 『ギリシア正教 東方の智』 (講談社選書メチエ) 久松 英二 ISBN 9784062585255
「カトリック教会の神学者が正教会とカトリック教会を比較して書いた」という視点についての前提のもとで読むと大変興味深い良書。
* &font(green){正教会}
** 『ギリシャ正教』(講談社学術文庫) 高橋保行 ISBN 9784061585003
1980年に書かれた本であり、世界の正教会の状況について書かれた部分はデータとして古くなっては居ますが、今も使える正教会についての総合的な入門書です。カトリックやプロテスタントの人物による翻訳・著作ではなく、正教会の司祭(神父)による著作なので、日本正教会での日本語表現・語彙のあらましも知ることが出来ます。
** 『東方正教会』(文庫クセジュ) オリヴィエ・クレマン(著), 冷牟田 修二(翻訳), 白石 治朗(翻訳) ISBN 9784560056073
「正教会の神学者が正教会について書いた」という前提のもとで読むと大変興味深い良書です。ただし、若干の基礎知識が要求されますので、総合的な入門としては上記がお勧め。神学面での入門書としてはこちら。
* &font(green){カトリック教会}
** 『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』(カトリック中央協議会) 日本カトリック司教協議会 常任司教委員会 ISBN 9784877501013
バチカン認可の『カトリック教会のカテキズム』、さらにその要約版を、これまた教皇認可のもとにわかりやすく編集されたもの。
カトリックの内部向けだけでなく、外部にも、他の信仰を持つ人にも読んでほしいQ&A集。
** 『カトリックの信仰』(講談社学術文庫) 岩下 壮一 ISBN 9784061591318
戦前の書ですが、日本語で書かれた教義解説書の中で、今に至るも最高峰に位置します。聖書学などで著者の見解には乗り越えられた部分も多々あると思いますが、しかし、基礎的な教養として知っておいても損にはなりません。厳格な新スコラ主義的教育の薫陶を受けたと思われる硬質な文体もまた、現在の日本では失われたに等しい曖昧さや妥協を嫌う理知の輝きというものを放っています。
* &font(green){聖公会 (英国国教会)}
** 『道をたずねて―祈祷書に基づいたカテキズム』(聖公会出版) B.D. タッカー(著), 赤井 勝哉(翻訳) ISBN 978-4882740834
またカテキズムになってしまうけれど、これもすごくまとまった良書です。
日本の大学で教鞭を執っていたタッカー教授が、できるだけわかりやすく、かつ神学的に正しくまとめたもの。
緑の表紙にケルト十字の表紙です。
** 『聖公会が大切にしてきたもの』(聖公会出版) 西原 廉太 ISBN 978-4882742111
2009年に聖公会関係学校教職員研修会で行われた講演をもとにまとめられた本。
日本の歴史などとからめ、身近な話題からに「聖公会とは何か」を優しくわかりやすく解説した本。
* &font(green){ルター派(ルーテル派)}
** 『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』(岩波新書) 徳善 義和 ISBN 978-4004313724
ルターの伝記仕立てという読みやすい構成ながら、随所にルターの思想のかんどころや後世への影響を書いているので、読むだけでルターのことがなんでもわかってしまう。
音楽の才能にも恵まれたルターが作った讃美歌が、後のバッハやメンデルスゾーンの音楽に影響を与える一方、ナチスに利用された負の歴史もちゃんと紹介しています。
キリスト教を「ことばの宗教」ととらえ、「ことばに生きた」ルターがやった宗教改革は、聖書という「ことば」によってキリスト教を改革しようとしたことだと、「ことば史観」でルターをまとめあげたのも見事です。
<注>正教会に関して p109で、「(東欧は)北はロシア正教、南はギリシア正教」のような誤った記述が見られるなど、欠点も見受けられます。
** 『ルター―異端から改革者へ 』(教文館) T・カウフマン(著),宮谷尚実 (翻訳) ISBN 978-4764266858
ルターについての一般向けの概説として、良い本です。訳文も比較的、分かりやすいです。
* &font(green){カルヴァン派(改革派・長老派)}
** 『長老教会の問い、長老教会の答え:キリスト教信仰の探求 』(一麦出版社) ドナルド・K・マッキム(著), 原田浩司(翻訳) ISBN 978-4900666818
問いと答え、という形式で、初歩的なところから細かく丁寧に解き明かしていく構成になっている本です。
* &font(green){会衆派(組合派)}
** 『祈りのこころ』(一麦出版社) ピーター・テイラー・フォーサイス(著),大宮溥 (翻訳) ISBN 978-4-86325-002-4
会衆派(組合派)は、その長い歴史の中で、そしてそれぞれの会衆の中で、幅の広い神学を示してきました。
清教徒革命時やピルグリム・ファーザーズなどの清教徒の要素が強い時代から、19世紀以降の超教派的姿勢まで。
その中で、この教派の神学をきちんと追求し、広く認められている神学者がフォーサイスです。
この本は彼の本の中でも、わかりやすく「祈りについて」書かれたものです。
* &font(green){メソジスト}
** 『メソジストって何ですか―ウェスレーが私たちに訴えること』(教文館) 清水光雄 ISBN 978-4764269019
メソジストの歴史から、その神学までわかりやすく書かれた入門書です。
聖公会・カトリック・東方正教から継承した信仰の遺産や、18世紀英国とアメリカ独立戦争とメソジストの関係などにも触れてあります。
* &font(green){福音派}
注:「福音派」とは教派名ではありません。聖書信仰を重視し(聖書主義)、十字架の購いを重視し(十字架中心主義)、回心を重視し(回心主義)、伝道を重視する(行動主義)の教派やグループの総称です。
** 『わたしの使徒信条 ~キリスト教信仰の真髄~』(いのちのことば社) 藤本満 ISBN 9784264029694
基本信条である使徒信条を読み解きながら、信仰を総合的に体系的に解き明かし、告白する本です。
** 『総説 現代福音主義神学』(いのちのことば社) 宇田進 ISBN 9784264028970
現代という時代の文脈において、福音派の神学を解き明かした本です。
同じ著者の『福音主義キリスト教と福音派』とあわせ、神学校でも広く用いられている本です。
** 『信じてたって悩んじゃう〔合本・愛蔵版〕』(いのちのことば社) みなみななみ ISBN 9784264028970
タイトルにもあるように、「信じてたって悩んじゃう」等身大のキリスト教徒の姿を描いたもの。
信徒がさまざまな問題にぶつかって悩んでいく姿を等身大で描いています。
* &font(green){古典的著作}
入門書とは少し異なりますが、おさえておきたい古典的著作を挙げます。
** 『世界の名著 16 アウグスティヌス』 (中公バックス) アウグスティヌス (著), 山田 晶 (翻訳) ISBN 9784124006261
言わずと知れた西方教会最大の教父、アウグスティヌスの有名な書、『告白』です。
** 『キリスト者の自由・聖書への序言』 (岩波文庫) マルティン・ルター (著), 石原 謙 (翻訳) ISBN 9784003380819
ルターの著作の中で最も有名なもののひとつ。短い文でやさしく語りかけながら、同時に信仰、特にプロテスタント信仰の基本を語る書です。
** 『信仰の手引き』 (新教新書) ジャン・カルヴァン(著), 渡辺信夫 (翻訳) ISBN 9784400540014
カルヴァンの『キリスト教綱要』の初版が出版された翌年に書かれたもの。『キリスト教綱要』の初版の考えをコンパクトにまとめた本としても評価が高い書です。
*ページ一覧
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]} (2012年6月2日現在、2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。今後さらにページを分割することも有り得る。)
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
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2012-12-01T00:59:01+09:00
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間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}が&bold(){容量オーバーになった}ため、歴史篇を分割して作成。
2012年6月2日現在、2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* 歴史についての間違い
** 歴史
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p26|「ローマ軍の手で&bold(){エルサレムの神殿が壊されて、ユダヤ民族は世界中に散らされてしまった}んですね」|([[東京工業大学で行われた2004年度の宗教社会学のレジュメ>http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/titech/shukyo/resume/shukyo0401.pdf]]から窺われるように)橋爪氏が、ユダヤ民族が世界中に散らされたのはローマ軍によってエルサレムが破壊された70年以降だ、と考えているのであれば、明確に誤りである。紀元前から既にディアスポラのユダヤ人がいたことは確かである(たとえば、ディアスポラのユダヤ人の一人として、本書で何度も取り上げられているパウロが挙げられる)。&br()しかし、70年以前にディアスポラのユダヤ人が既にいたことを承知しつつ、しかし大雑把にユダヤ教の流れを語るためにこのように述べているのかもしれない。大澤氏が102頁で「バビロン捕囚の後に、ディアスポラ(離散の民)ということが言われるようになります」と語っていて、それを橋爪氏は訂正していないから、こちらであるかもしれない(このような橋爪氏の説明は、前提とする読者のことを考えれば大雑把に過ぎると思われるが、この点については議論が分かれるところであろう)。&br() なお、大澤氏がこの「ディアスポラ」が何を意味するのか分かった上で語っているのか、かなり怪しいことも指摘しておこう(102-103頁で大澤氏は、ディアスポラのユダヤ人を寄留者と同じように理解しているようだし、「特定の土地に定住しきらない移動する」人々とも考えているようだが、ディアスポラのユダヤ人はユダヤの地以外に寄留ではなく定住している人々のことも当然指す)。|[[Catholic Encyclopedia Diaspora>http://www.newadvent.org/cathen/04775c.htm]]|
|p33&br()&br()p34|「イエス・キリストの時代には、&bold(){神殿で儀式を行う人びとはサドカイ派}、&bold(){律法を守る人びとはパリサイ派}、と呼ばれていた」&br()&br()「神殿で儀式を行ない、ヤハウェに犠牲を献げるのが、祭司たちです。&bold(){サドカイ派は、こういうグループ}だった」|神殿で儀式を行う人びとは、祭司であり、その中にはサドカイ派の者もいたが、全てがそうであるわけではなかった。サドカイ派は当時のセクトの一つであって、モーセ5書のみを権威あるものと認め、口伝律法、霊魂不滅、復活思想を認めない点に特徴があるが、しかし当然律法を守っていた。この点から、「律法を守る人びとはパリサイ派」とは珍妙な説明であることが分かろう。そもそも程度の差こそあれ、ユダヤ人であれば誰でも律法を守っていたのだから。パリサイ派は律法をただ守っていただけではなく、より厳格に守ろうとしたセクトであり、且つ成文律法(モーセ五書)のみならず口伝律法にも権威を与えていたセクトである。|[[A.J. Saldarini, Pharisees, Scribes, and Sadducees in Palestinian Society>http://www.amazon.co.jp/Pharisees-Scribes-Sadducees-Palestinian-Society/dp/0802843581/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1334840705&sr=8-1]]|
|p34|「バビロン捕囚から戻ってからは、&bold(){預言者が現れなくなる}。実際には現れたのでしょうが、見つけ次第、&bold(){弾圧されるようになった}。」|典拠不明。橋爪氏は捕囚後の預言者であるハガイもゼカリヤも居なかったと主張したいのだろうか。「聖書には書かれているが実在しなかったと思う」というのであれば、典拠をつけてそう主張するべきだ。橋爪氏がハガイもゼカリヤも知らないだけではないかと疑われる事を避けるためにも。 &br() &br() 預言者ハガイが、ユダの総督シュアルティエルの子ゼルバベルと、大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに対して預言した際、ハガイは「弾圧される」どころか、ゼルバベルとヨシュア、および民はハガイに耳を傾け(ハガイ書1章12節)、ハガイの預言通りに神殿再建に取り掛かっている(ハガイ書1章14節)。|[[HAGGAI - Online Information article about HAGGAI>http://encyclopedia.jrank.org/GUI_HAN/HAGGAI.html]]&br() &br() [[ZECHARIAH - Online Information article about ZECHARIAH>http://encyclopedia.jrank.org/YAK_ZYM/ZECHARIAH.html]]&br() &br() [[ハガイ書1章12節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi]]&br() [[ハガイ書1章14節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi]]|
|p34&br()&br()&br()&br()&br()&br()p112|「イエスが処刑されたあと、エルサレムの神殿が破壊され、神殿を拠点にしていた祭司がいなくなった。預言者もとっくにいない。&bold(){律法学者だけ残った}。これが、いま私たちが知っているユダヤ教です。」&br()&br()「&bold(){律法学者(イエスの時代には、パリサイ派と呼ばれた)}」|エルサレム神殿崩壊後に残った集団が「いま私たちが知っているユダヤ教」を作った、と言いたいのであれば、ファリサイ派が残った、と言うべきであろう。律法学者は読み書きに関する能力を持った人びとを指すのであって、従って神殿崩壊後に主流となったファリサイ派以外のセクト、つまり神殿崩壊と同時あるいはその後に歴史から姿を消してしまったサドカイ派、エッセネ派にも律法学者がいたのである。従って、律法学者が「イエスの時代には、パリサイ派と呼ばれた」とは明確な誤りである。|[[A.J. Saldarini, Pharisees, Scribes, and Sadducees in Palestinian Society>http://www.amazon.co.jp/Pharisees-Scribes-Sadducees-Palestinian-Society/dp/0802843581/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1334840705&sr=8-1]]|
|p41|「イスラエルの民には、&bold(){ヤコブの十二人の息子を}それぞれ先祖だと信じている、十二の部族がある」&br()「ヤコブの十二人の息子の子孫が、イスラエル十二部族となり、&bold(){めいめい土地を割り当てられて}、カナンの地に定着します」|ヨセフ族がマナセ族とエフライム族に分かれ(マナセとエフライムはヨセフの息子であり、従ってヤコブの孫である)、ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族、ルベン族、シメオン族、ガド族、ベニヤミン族、ダン族、アシェル族、ナフタリ族、レビ族、マナセ族、エフライム族、の十三部族とする伝承が一般的。土地の割り当てについて述べるならば、この伝承に基づく区分を採用すべきである。何故なら、橋爪氏の言葉に従えば、レビ族も土地を取得したことになってしまうからである!|[[Catholic Encyclopedia:Jewish Tribe>http://www.newadvent.org/cathen/15039a.htm]]|
|p41|「&bold(){南側のユダ族が広い範囲を占めて}いて、北側に残りの部族がいる」|南北王朝時代の南ユダ王国とユダ族の土地の混同。時代も違う上、ユダ王国はユダ族だけの土地ではない。ベニヤミン族の土地もユダ王国に属する。また、仮にユダ族の土地だとしても、民数記26章とヨシュア記19章などを参照すると分かるように、別に広い土地だったわけではない。| [[Tribe of Judah, Territory of Judah. Jewish Enyclopedia >http://www.jewishencyclopedia.com/articles/8956-judah-tribe-of]]&br() &br() [[Old Testament Map 4 - The Tribes of Israel>http://bible.org/assets/netbible/ot4.jpg]] |
|p133-4|「イエスについては、文書記録があります。でもそれは、&bold(){福音書に限られる}。キリスト教の初期教会が伝える福音書がすべてだと言っていい」「別の記録、たとえば、ユダヤ教側の文書とか、イエスを十字架で処刑したローマ側の文書とか」は「&bold(){見つからなかった}」|イエスと同時代のユダヤ人フラヴィウス・ヨセフス(37年頃から100年頃)が93年か94年に著した『ユダヤ古代誌』18・63以下にイエスについての証言がある。尤も、この個所がヨセフスの真筆であるかについては議論があるが。|[[『ユダヤ古代誌』18・63以下>http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0146%3Abook%3D18%3Awhiston%20chapter%3D3%3Awhiston%20section%3D3]]|
|p139|「いつキリスト教が成立したかというと、それは、&bold(){パウロの書簡によって}である」。|聖書学の分野では一般に、パウロはユダヤ教に属すると考えられている。イエスをキリストと信じる人びとが、自分たちはユダヤ教徒であるかどうかというアイデンティティに関わる問題を自覚し始めたのは、パウロの死後であり、第一次ユダヤ戦争が終わってから、つまり70年以降である。|佐藤研『聖書時代史―新約篇』岩波現代文庫、2003年、144頁以下]&br() &br()上村静『旧約聖書と新約聖書』新教出版社、2011年、259頁以下。|
|p150&br()&br()p207|「当時、&bold(){『義の教師』という人びとがいて}」&br()&br()「歴史的実在としてのイエスは」「義の教師」|「義の教師」は死海文書に現れ、クムラン教団を作った人物あるいはこの教団の指導者を指していると考えられている。橋爪氏が「義の教師」という言葉でどのような人びとあるいは集団を指しているか不明であるが、「義の教師」はテクニカルタームであるから、この名称を用いては誤解を招く。従って、訂正が必要。|[[死海文書入門講座Ⅵ 和田 幹男 VI 正義の教師-クムラン教団の起源を求めて>http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS06a.html]]|
|p161|ヘロデ大王の死後、&bold(){四人}の息子が国土を分割した|歴史的事実としてヘロデ大王の息子のうち、存命したのはアルケラオス、ヘロデ・アンティパス、フィリッポスの3人だけである(他は処刑された)。アルケラオスは「民族統治者 ethnarches」としてユダヤとサマリアを、ヘロデ・アンティパス及びフィリッポスは「四分領守 tetrarches」として、前者がガリラヤとペレアを、後者が北トランス・ヨルダンを支配した。「民族統治者」も「四分領主」も「王」ではない。ローマの皇帝の承認なしで「王」を名乗ればローマに対する反逆罪となる(なお、ヘロデ大王は遺言でアルケラオスを王としたが、これはアウグストゥスに許されず、従ってアルケラオスは「民族統治者」になったのである)。これを押さえずにイエスの時代を語れない。&br()なお、第14版では「三人」と正しく訂正されていることを付言しておこう。|[[Herod the Great Biography>http://www.notablebiographies.com/He-Ho/Herod-the-Great.html]]&br()&br()[[Herod Encyclopædia Britannica>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/263437/Herod]]&br()&br()山我 哲雄 (著), 佐藤 研 (著) 『旧約新約聖書時代史』p169 - p170, 教文館 (1992/02) ISBN 4764279037|
|p161|「&bold(){さらに}、ローマの総督がいて」|同頁の文脈から見ると、当時のユダヤにはヘロデ王家(ヘロデ大王の息子アルケラオスのことであろう)、サンヘドリン、そして総督が同時期にいたように書かれているが、ヘロデ大王の後でユダヤとサマリアの支配者となったヘロデ・アルケラオスが失脚し(6年)、その後、ユダヤとサマリアはローマの属州となり、その結果ローマ総督が派遣されたのであって、アルケラオスと総督が同時期にいたわけではない。|佐藤研『聖書時代史―新約篇』岩波現代文庫、2003年、24頁。|
|p164|「イエスは、モーセの律法に違反する重大刑事犯なので、議会が逮捕して裁判にかけた。&bold(){王もいた}けれど、宗教法に関することなので、関与しなかったと思う」|上に挙げたように、当時のあの時代のユダヤ属州はローマ統治下なので王は持てない。「ユダヤの王」を名乗ったらローマに対する反逆罪で国ごとつぶされる恐れがあった。だからユダヤ属州には王はいなかったし、イエスがユダヤの王だと思われたらローマににらまれる可能性があった。大勢を守るために一人を殺そうと大祭司カイアファが判断した、というのは福音書にもある記述。ヘロデ大王が死んで領土が分割され、ヘロデ・アグリッパ一世がまたローマに認めてもらうまで、その間の期間にユダヤ属州に王はいない。そもそも、「金の冠」のかわりに「イバラの冠」、「王笏」のかわりに「葦の棒」、「紫の衣」のかわりに「裸に兵士の赤いマント」というのは、「王になれない偽者の王だ」っていう見せしめ、精神的な拷問の意味もあった。そして十字架にINRI、「ナザレのイエス ユダヤの王」が罪状書きとされた。ローマ帝国の総督ピラトは「イバラの冠」などでイエスを王になれない偽者の王として飾り立て、ユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と見せ付けてさらしものにする。それに対してユダヤ人は「わたしたちには、皇帝のほかには王はありません」と答える(ヨハネ19:14-15)。イエス裁判のシーンでピラトがイエスに真っ先に聞くのは「お前はユダヤの王なのか」ということなどは、すべての福音書に共通している。当時のユダヤ属州に「王」がいてはいけなかった、ということが前提でないと、イエス裁判のシーンは成立しない | [[Jesus Christ: The Political Situation Encyclopædia Britannica >http://www.britannica.com/EBchecked/topic/303091/Jesus-Christ/222989/Jewish-Palestine-at-the-time-of-Jesus?anchor=ref748553]]&br()[[Judaea Encyclopædia Britannica>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/307117/Judaea?anchor=ref235359 Pontius Pilate>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/460341/ ]]&br() [[Pontius-Pilate Encyclopædia Britannica>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/460341/Pontius-Pilate]] |
|p167|「パウロは」神の子を「どう考えていたか。……神の子とは、どういうアイデアかというと、まず、あちこちの国王がそのように主張していた。成り上がりの王が、自分の血筋を誇れない場合、「自分は太陽の子だ」とか「神の子だ」とか主張したんです。それは、&bold(){パウロも知っていたと思う}。だから、当時、神の子という考え方がまったく&bold(){なかったわけではない}」|パウロはローマ帝国の中で生きていたのだから、「あちこちの国王」の話をするのではなく、ローマ皇帝崇拝を語るべきであろう。というのも、初代皇帝アウグストゥス(在位前27-後14年)がまさに「神の子 divi filius」の称号を得ているからである。左記の指摘に対し、divi filiusであってDei filiusではない、との指摘が寄せられたので、当時のコインや碑文で、ローマ皇帝がギリシャ語で「神の子(theou hyios)」と呼ばれているものが幾つもある、ということを指摘しておきたい。更に、現在のトルコにある小アジアの都市プリエネから出土した、紀元前9年に発令された暦の勅令に関する碑文『プリエネ碑文』では、アウグストゥスが端的に「神 theos」と呼ばれていることも、ついでながらここで指摘しておこう。だから、イエスが「神の子」であると語ることは、ローマ帝国に対する抵抗の意味もあるかもしれない。&br()以上から、パウロは「神の子」という概念があることを「知っていたと思う」と曖昧に語るのは困難であろう。彼は、ローマ帝国反逆者の処刑法である十字架刑に処せられたイエスを自覚的に「神の子」と呼んでいるのであり、それがローマ皇帝に対する或はローマ皇帝をそのように呼ぶ人々に対する批判をも意味することを自覚していた、と考えるのが妥当である。|[[Richard Niswonger, New Testament History>http://books.google.co.jp/books?id=uyAXaNnz9sUC&pg=PA164&lpg=PA164&dq=tiberius+inscription+greek+theou&source=bl&ots=AxY3mm9uD3&sig=W_eH1PwsspxheWzrxs3AyfTOY9U&hl=ja&sa=X&ei=8runT8nJJfGViQe5xOHRAw&redir_esc=y#v=onepage&q=tiberius%20inscription%20greek%20theou&f=false]]&br()&br()[[Richard A. Horsley, Paul and Empire: Religion and Power in Roman Imperial Society>http://books.google.co.jp/books?id=G-Bgccv6VS8C&pg=PA106&dq=tiberius+inscription+greek+theou+huios+augustus&hl=ja&sa=X&ei=I76nT4nCAo_KmAWbptzhBA&ved=0CDUQ6AEwAA#v=onepage&q=tiberius%20inscription%20greek%20theou%20huios%20augustus&f=false]]&br()&br()[[プリエネ碑文>http://www.artsci.wustl.edu/~fkflinn/Priene%20Inscription.html]]|
|p172|「当時のユダヤ教のグループには、パリサイ派とサドカイ派のほかいに、エッセネ派というのがあって、…。エッセネ派は、裁きの日は近いと考えて、&bold(){人里離れた山の中にこもり}、独身主義で祈りの生活を送る、みたいな人びとなんですね。独身主義で祈りの生活を送っていたら、&bold(){五十年もすればその集団は消滅してしまう}わけで、だからいなくなってしまったグループなんです」|イエスと同時代のヨセフス(37年頃から100年頃)の『ユダヤ戦記』II・8・4には、エッセネ派は山の中に出はなく「一つの町に住んでいるわけではなく、&bold(){各町ごとに}(共同住宅に)定住している」と書かれている。更にヨセフスは、エッセネ派にも様々なグループがあり、あるエッセネ派のグループでは、結婚を認めている、と報告している(『戦記』II・8・13)。つまり、橋爪氏はエッセネ派の多様性を考えていないのである。橋爪氏はエッセネ派の中のクムラン宗団を念頭において発言されたと思われる。この集団は紀元前2-1世紀には出来上がったと考えられるが、滅びたのは結婚しなかったからではなく、ローマ軍に占拠されたからである。70年頃と考えられているから、50年以上は消滅せずに残っていたのであった。&br() &br()エッセネ派はエルサレムの神殿がなくとも信仰は守れると主張した。そのため、一部の研究者は、このセクトが洗礼者ヨハネやイエスにも近い存在だった考える。エッセネ派が歴史の表舞台から消えていった理由は様々考えられているが、そののひとつとして、紀元70年のエルサレム神殿の破壊が挙げられるかもしれない。ローマによる弾圧に加え、神殿を失ったため、神殿に対抗する勢力として自らを規定していたグループであったため、存在意義が薄れてしまったのである。そのため、律法学者のファリサイ派の一部と合流していったと考えられている。&br() &br() また、これは橋爪大三郎の『性愛論』などにもみられる彼の独自の考え方であるが、独身主義をとった集団は滅びる、というものがあるらしい。その根拠は不明である。そもそも、独身主義や禁欲主義の団体は新人の入会を拒むとは限らない。カトリックの聖職者は独身が原則であり、正教の修道士聖職者は独身者であり、両教会にも修道制があるが、極めて長い期間存続しているのをどう説明するのだろうか?|[[死海文書入門講座II 和田 幹男 Ⅲ Ⅱ キルベト・クムランの発掘調査>http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS02.html]]&br()[[死海文書入門講座Ⅲ 和田 幹男 Ⅲ キルベト・クムランにいた住民は誰か>http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS03.html]]&br()[[Essenes - Jewish Encyclopedia >http://www.jewishencyclopedia.com/articles/5867-essenes]] &br() &br()[[ Essene - Encyclopedia Britanica >http://www.britannica.com/EBchecked/topic/193097/Essene]]|
|p173|大澤「イエスのグループを、&bold(){エッセネ派と違うというので}、『ナザレ派』と呼ぶ人びともいる」|典拠不明。誰がこのように言っているか、明言して欲しい。もちろん、イエスのグループを「ナザレ派」と呼ぶ研究者はいるが、それはイエスのグループをユダヤ教内部の一派と捉え、エッセネ派&bold(){のみならず}ファリサイ派やサドカイ派からも区別するためである(例えば、出村彰『キリスト教入門2歴史』日本基督教団出版局、1981年(4版)、8頁など)。エッセネ派とだけ区別するだけの名称では、情報として不十分である。|出村彰『キリスト教入門2歴史』日本基督教団出版局、1981年(4版)|
|p216|「(ユダの福音書が英訳されたことは)日本では&bold(){一行も}ニュースにならなかった」|たとえば日経新聞が2006年4月7日に伝えている。日経新聞を始めとした諸新聞はニュースを伝えていない、と橋爪氏は言いたいのか。|[[歴史を覆す大発見! 「ユダの福音書」が明かす、イエス・キリストの最後の言葉>http://www.nikkeibp.co.jp/news/life06q2/501112/]]|
|p236|「そもそも、教会というものができたことが、&bold(){パウロの}最大の貢献ですね」|パウロ以前に教会は(その形態がどのようなものであれ)各地にあった、と考えるのが自然。そもそも、パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』1章13節で、召命を受ける/回心する前に「わたしは、徹底的に神の&bold(){教会}を迫害し、滅ぼそうとしていました」と述べている。もし教会がパウロによって成立したのであれば、パウロがキリスト者になる前には教会が無かったことになる。しかし、パウロはキリスト者になる前に教会を迫害し、滅ぼそうとしていた。矛盾である。|[[ガラテヤの信徒への手紙1章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gal&chapter=1&mode=0]]|
|p237|「ユダヤ教」はローマ世界の神々を礼拝しなかったが、「&bold(){ユダヤ人コミュニティに閉じていた}ので」、そのようには「&bold(){見えにくかった}」。だから「&bold(){キリスト教は、初めて公然と現れた一神教}として、人びとに深い印象を残した。キリスト教は無神論だから、神を拝まないのだろうと言われていたほどです」|事実と異なる。キリスト教以前にユダヤ教の人々がローマの神々を礼拝しなかったので、既に人々の注目を集めていた。例えば、前1世紀の修辞学者アポロニオス・モロン(キケロやカエサルの師匠)は、ユダヤ人を「&bold(){無神論者}」と罵っているが、これはユダヤ人が自分たちの主以外を礼拝しなかったからである。&br()そもそもこのようにユダヤ人が侮蔑されたのも、彼らがヘレニズム世界に広く、しかもかなりの人数が住んでいたからである。ユダヤ人がいない土地を探すのは困難である、と当時言われていたほどであり、更に、ユダヤ人の中には上層階級に属し、政治的に活躍した人物も居た(たとえば、アレクサンドリアのフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルは、ユダヤ総督やエジプト領事にもなった)。|[[野町啓『学術都市アレクサンドリア』>http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E8%A1%93%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8E%E7%94%BA-%E5%95%93/dp/4062919613]]|
|p238|(「19 初期の教会」の項目内で)「ユダヤ教のシナゴーグは、男女別々に着席する。イスラム教のモスクもそう。&bold(){キリスト教の教会は、男女いっしょに座る。}」|現代では確かに大半の教会が、教会堂内で祈る位置につき、男女の区別をしていない。&br() &br()しかしこの個所では橋爪氏は初期教会について語っているので誤り。初期教会においては男女の位置は区別されており、これは最近まで守られていた習慣である。4世紀のエルサレムの聖キュリロス(イエルサリムの聖キリル)も、教会堂内では男女それぞれ祈るよう教えている。またギリシャ正教会、コプト教会など、男女を教会堂内の位置で(教会堂の左右などで)分けるという習慣を守っているものが今でも一部存在する(正教会の全てで守られているわけではないが、守っている者・地域も少なくないということ)。&br() &br() なお、「座る」というのも一面的に過ぎる。正教会は立って祈るのが基本的姿勢である。&br() &br() &bold(){現代の一部教会を見ただけで、初期教会や世界中の教会につき、勝手に想像して断定するべきではない。}|[[Separate Church Seating Arrangement>http://www.bibleviews.com/separateseating.html]]&br() &br()[[Why do men and women sit on different sides in the church?>http://www.lacopts.org/faq/spirituality/why-do-men-and-women-sit-different-sides-in-the-church]]&br() &br()[[Greek Orthodox Funeral for a Priest_Choir of Saint Sophia Greek Cathedral London>http://www.youtube.com/watch?v=uHeUGm_I2Uo&]](ギリシャ正教会聖ソフィア大聖堂での埋葬式の&bold(){動画}、ロンドン)|
|p251|「&bold(){180頃 『新約聖書成立』}」|新約聖書が成立とは何を指しているのか不明である。新約聖書に収められている全ての文書が出揃ったのが180年頃と言うならば、遅すぎる(一般に、新約聖書諸文書の中で最も新しいのは『ペテロの手紙二』であり、これが150年より後に執筆されたと考える研究者はほぼいない)。テルトゥリアヌスが初めて「新約聖書」という名称を用いたことを誤って「新約聖書成立」と書いているのだろうか。しかし、テルトゥリアヌスがキリスト者となったのは180年より後であるから、早すぎる。正典としての『新約聖書』が成立した、という意味であるのか。しかしこれも、全くの間違い。そもそも西方教会において現行の新約聖書に含まれるのと同じ27書が正典とされたのは393年のヒッポーの宗教会議においてであり、397年の第3回カルタゴ宗教会議にて正典目録が発布されたのである(東方教会はもっと遅い)。|[[ Catholic Encyclopedia Canon of the New Testament>http://www.newadvent.org/cathen/03274a.htm]]|
|p255|「(五大総主教座エルサレム、アンティオキア、アレクサンドリア、コンスタンティノープル、ローマのうち)最初の三つはまもなく&bold(){開店休業}になって」|開店休業どころか、どの総主教庁も正教会のものも非カルケドン派のものも、全て現代まで存続している。この論法だとこの前永眠したコプトのシェヌーダ3世も「開店休業の主」だった事になるのだから、橋爪氏はコプトに対して非常に失礼なことを語っているのではないだろうか。また、トゥルーリ公会議では「ローマ、コンスタンティノポリ、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサリム」という序列が定められているが、何でこんな並べ方をしたのかは不明。|[[The Quinsext Council (or the Council in Trullo), 692 >http://www.fordham.edu/halsall/basis/trullo.asp]], CANON XXXVI.参照 &br()[[コプト正教会の教皇シェヌーダ3世が死去、エジプト>http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2866309/8663407]] (AFPBB 2012年03月19日 09:54)|
|p256|「全部で&bold(){六}回開かれた公会議の内容をすべて承認している(正教とカトリック)」|正しくは7回。これは「細かい間違い」ではない(「幾つの公会議を承認しているのか」がカルケドン公会議を認める側と認めない側を分ける分水嶺になっているため)。&br()なお、14刷では正しく7回と訂正されていることも付言しておこう。|[[OCA - The Orthodox Faith - Volume I - DoctrineSources of Christian Doctrine - The Councils(アメリカ正教会)>http://oca.org/orthodoxy/the-orthodox-faith/doctrine/sources-of-christian-doctrine/the-councils]]|
|p256|「東方教会と西方教会が分裂したのは、スポンサーであるローマ帝国が、テオドシウス帝の死後、東西に分裂したからです(&bold(){395年})。分裂してしばらくすると、両教会合同の公会議が開けなくなった。道中の警護や経費の負担ができないからです。」|高校の受験世界史通りに「1054年」を目安にせよとは言わないが、395年に起点を求めるとは幾らなんでも早過ぎる。&br() 正教とカトリック双方から有効性が認められている全地公会(第三:431年、第四:451年、第五:553年、第六:681年、第七:787年)は8世紀まで開かれているのであり、「ローマ帝国が分裂したから共同の公会議が開かれなくなった」というのは、もはや「解釈の違い」ではなく「事実に反する」。&br()加えて、「帝国の分裂」=「教会の分裂」と簡単に言えるような事態だったら、イリュリクム統治領の教会管轄権の問題は起きよう筈も無い(イリュリクム統治領は東ローマ帝国治下だったが、教会管轄はローマ司教に帰属していた)。|久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』28頁 - 29頁 &br() [[OCA - The Orthodox Faith - Volume I - DoctrineSources of Christian Doctrine - The Councils(アメリカ正教会)>http://oca.org/orthodoxy/the-orthodox-faith/doctrine/sources-of-christian-doctrine/the-councils]]|
|p258|大澤「そもそもなんでローマ教会がラテン語を使ったのかよく解らない」橋爪「本来なら、ギリシア語であるべきですね」|「ローマ教会がなぜラテン語&bold(){のみ}を使うようになったのかよく解らない」というのなら解るが、4世紀のシリアの聖エフレムだってシリア語使っていたのだから、ローマ教会が現地のラテン語を使ったことまでは、別段不思議がることではない。&br()そもそもシリア語で膨大な著作を残した聖エフレムの存在を、橋爪氏も大澤氏も全く知らないと思われる。 |[[St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)>http://www.soc-wus.org/ourchurch/St.%20Ephrem%20the%20syrian.htm]](シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)|
|p275|「初期教会は、ローマ帝国の&bold(){ただの任意団体}で」|キリスト教が宗教法を作れない(間違い)、というところに現れた意味不明な記述である。初期教会がローマの国教となっていなかったことの表現のつもりかもしれないが、「任意団体」と言う限りは「公認」されていた(少なくとも適法と看做されていた)組織を意味するが、そのような歴史的事実は無い。ローマにおけるキリスト教の公認は4世紀である。&br() &br() そもそも「任意団体」という概念をあてはめること自体何が言いたいのか不明。任意団体は「法人」に対置される概念であって、団体の適法性・違法性は法人化の有無には拠らない。「公認」されたら「法人」と言いたいのか?「橋爪は宗教学者ではなく宗教社会学者だ」と擁護する向きもあるが、仮にも「社会学者」であれば、「法人」と「任意団体」の概念の違いを押さえてから発言するべき。|[[任意団体とNPO法人の違い | 京都市市民活動総合センター>http://shimin.hitomachi-kyoto.genki365.net/gnkk14/pub/sheet.php?id=11962]](流山市のウェブサイト内ページが消滅したため、参考リンクを変更)|
|p312|「クジラに脂身がたくさんあって油が採れるとなれば、&bold(){クジラを獲ってロウソクを}つくってもいいし、(中略)&bold(){こんなことは、キリスト教徒しかやらないんです。}」|鯨油は江戸時代の日本でも照明・農薬など多目的に利用されていた。&bold(){本書を読むと、キリスト教のみならず、日本の宗教・日本の歴史も誤解する。}&br()&br()これも瑣末な間違いではない。間違いそのものも問題だが、橋爪氏による&bold(){勝手な結論(キリスト教徒の特殊性強調)に合わせて、前提となる基本的な歴史的事実(日本人も同じことをしていた)が捻じ曲げられてしまっている}という構造が、本質的問題である。|[[平戸市生月町博物館鯨の利用>http://www.ikitsuki.com/yakata/isana/index16.htm]]|
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2012-10-31T21:45:36+09:00
1351687536
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間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}が&bold(){容量オーバーになった}ため、聖書篇を分割して作成。
2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者や読者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[(新約その2)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* 聖書についての間違い
- 目次
-1 [[総論>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]
-2 [[旧約>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]
-3 [[新約その1>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] [[新約その2>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]
** 新約その1 ([[その2はこちら>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]])
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p134|「マルコによる福音書が一番古く、後からの福音書は先のものを参照して書いている。つまり、&bold(){ひとつの系統の文書}なんです」|ヨハネによる福音書がマルコによる福音書を始めとした共観福音書を参照して書いているか、つまり同じ一つの系統に属す文書であるかは不明である。&br()なるほど、この点は間違いではない、と反論されるかもしれない。しかし、137頁にある「福音書の系譜関係」においては、ヨハネによる福音書と他の福音書との関係がないように、つまり別系統の文書(というか、独立した文書)として示しているのだから、本書内で矛盾した主張をしていることになる。従って、論理的に橋爪氏は誤っているのである。|荒井献他『総説 新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981年、175頁以下|
|p137|大澤「(共観福音書は)&bold(){相互に比較対照しながら一緒に読む福音書という意味}でしょう」(橋爪氏、これを訂正せず)|マタイ、マルコ、ルカ福音書が「共観福音書」と呼ばれるのは、これら3つの福音書で多くの記事が重複しており並べて共に観ることができるから、あるいはこれらが共通した視線を有しているからである。研究者でもない限り、相互に比較対照しながら一緒に読まなくてもいっこうに構わない。|[[Catholic Encyclopedia Synoptics>http://www.newadvent.org/cathen/14389b.htm]]|
|p139|「イエスは、自分で書物を書かなかった。&bold(){最後は十字架で死んでしまうという話}ですから、本人がそれを記録するわけにはいかない。」|どの福音書も「イエス・キリストの復活」で話が終わっている(マルコ福音書においても、現代残されている最後の部分は後代の加筆だとする説に則るとしても、十字架による刑死が最後ではなく、「空の墓」が最後の記述であって、十字架が最後の場面ではない)。&br() &br() 橋爪氏は「復活の話は後代に付け加えられたもの」という説を唱えているためこのような話し方をしているのかもしれないが、少なくともそれは全キリスト教に適用出来る見解ではない(むしろ全体からみれば少数派)。&br() &br() むしろ「復活したイエス・キリスト自身が、自身の復活について書いた福音書」の方が説得力があるであろうに、そうされてはいないという実際の状況が、橋爪氏の説では全く説明がつかない。|マタイによる福音書: 28章&br()マルコによる福音書: 16章&br()ルカによる福音書: 24章&br()ヨハネによる福音書: 20章・21章|
|p141|大澤:福音書には「いちおう著者の固有名詞が各テキストにはついていますが、&bold(){ルカとかマルコといった名前は、象徴的なものにすぎなくて}、じつは共作のようなものかもしれない」。|「象徴的なもの」が何を意味するのか不明である。そもそも、マタイ福音書およびマルコ福音書の著者がマタイ及びマルコであるとは2世紀前半のパピアスの言葉(エウセビオス『教会史』3巻39・15以下に収められている)に、ルカ福音書の著者がルカであるとはエイレナイオスの言葉(エウセビオス『教会史』5巻8・3に収められている)に遡るが、そこでこれら3つの福音書の著者がマタイ、マルコ、ルカであると言われているのは、この著者名が象徴的なものとして考えられてではなく、福音書の由来を使徒にできるだけ遡らせようとしたためである。この点では、139頁で橋爪氏が、福音書の「作者は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ。ほんとうに彼らが著者なのか、議論があります」と語っているのが、正しい。大澤氏の左記の言葉は、橋爪氏のこの言葉を無視してしまっている。|荒井献他『総説 新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981年、127、146、162頁|
|p145|「いちばん古いマルコ福音書は、&bold(){復活の記述がなく}、墓がからっぽだったというところで、唐突に終わっている」|確かにマルコ福音書の終わりは唐突である。しかし、イエスの顕現物語は語られないにせよ、16章6節で、天使と思われる若者によってイエスの復活が女性たちに語られて、その後で唐突に終わっているのであって、墓がからっぽだったというところで終わっているわけではない。&br()&br()なお、マルコ福音書のイエスは自身が復活すると何度も語っていることも指摘しておこう(8:31; 9:31; 10:33; 14:28)。|[[マルコ福音書16章1-8節参照>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mar&chapter=16&mode=0]](なお、9節以下は後代の加筆であり、元来のものではない)|
|p152-3|「&bold(){福音書のなかに}、復活をめぐって、それを信じるパリサイ派と、信じないサドカイ派が論争する場面が出てきます」|正しくは、使徒言行録である(23章6節以下)|[[使徒言行録23:6-8>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=act.new&keyword=%E3%82%B5%E3%83%89%E3%82%AB%E3%82%A4%E6%B4%BE&flag_back=1]]|
|p153&br()&br()p244|「イエスは&bold(){ガリラヤで、弟子たちのもとに現れ、そのあと天に昇った}、と信じられるようになります」&br()&br()「復活したイエスに、ガリラヤ地方に行ったら会えるというので、そちらに行くと、弟子たちのところにイエスが現れた。それから、&bold(){天に昇って行った}」|復活したイエスのガリラヤでの顕現について語っているのはマタイ福音書であるが、この福音書では「そのあと天に昇った」、とは書かれていない(マタイ28:16以下)。復活顕現のあとで「天に昇った」と書かれているのはルカ福音書と使徒行伝であるが(ルカ福音書と使徒行伝は同じ著者によって著された)、これらにおいてはイエスが弟子たちに現れたのは、ガリラヤではなく、エルサレムである(ルカ24:36以下、使徒1:3以下)。&br()&br()何故橋爪氏が、復活したイエスは天に昇ったと語っているにもかかわらず、イエスが現れた場所をルカ福音書に従ってエルサレムとはせず、マタイ福音書に従ってガリラヤとしたのかは、不明である。|マタイによる福音書28:16&br()&br()ルカによる福音書24:36以下&br()&br()使徒行伝1:3以下|
|p153&br() &br()p165&br() &br()p167|橋爪氏:「イエス・キリストは『神の子』だとする考え方を、確立したのは&bold(){パウロ}です」&br() &br()大澤氏:「最終的には、&bold(){パウロによる解釈}が定着して、イエスは『神の子』だということになったわけですが」&br() &br()「イエス・キリストが神の子だと決めたのは、パウロです」|典拠不明。一般に、イエスが神の子であるとパウロがはじめて主張したとは考えられていない。と言うのも、パウロが会ったこともないローマの教会の人びとに宛てた手紙の冒頭で、イエスが神の子であることを共通の前提として語っているからである(ロマ1:4)。これは、イエスが神の子であるとは、パウロが受け取った教えであることを示しているだろう。|ローマの信徒への手紙 1:4|
|p154|大澤「イエス・キリストだったら救世主という意味ですよね。神の子だったら、一段&bold(){神に近づいていますよね}。」「おっしゃるように、イエス・キリストを&bold(){神というか、神の子というふうに}見たことで…」|大澤氏も橋爪氏も「神の子」を神と同じ存在だと考えているが、「神の子」とは「義人」の意味で、つまり決して神ではない人間に対して用いられる呼称である場合もある(知恵の書2章12節以下参照)。だからパウロはキリスト者を「神の子ら」と呼べるのである(ガラテア3:26、4:5 etc)。この点を理解せずに、「神の子」という文字面だけから、神の子が神と同じような存在だと判断している橋爪氏及び大澤氏の判断は、誤りである。|知恵の書2章12節&br()&br()ガラテア3:26、4:5 etc|
|p154|「それから、処女懐胎の話は、もう少し、&bold(){古い層に属する}、ありがちな奇蹟の話だと思う」|ここで橋爪氏は、パウロがイエス・キリストを「神の子」とした(注。これが誤りであることは上記参照)時期よりも古くに「処女懐胎の話」が成立したと述べているのだが、パウロのどの書簡にも、更に70年頃に成立したと考えられているマルコによる福音書にも処女懐胎の話が語られていないのだから、こんなことは言えないはずである。なるほど、「思う」と語尾につけているのだから留保がある、だから間違えとは言えない、と反論する方がいるかもしれないが、大澤氏が続けて「そうですね」と肯定しているのに対して橋爪氏が何も言ってはいないのだから、誤りと指摘できよう。そもそも留保すれば何でも勝手なことを言っても良いわけではないと&bold(){思う}。||
|p155|橋爪「福音書をよく読むと、イエスを『神の子』と&bold(){明言していない}んです。…福音書は…イエスが『神の子』であるかどうかに関して、&bold(){及び腰である}。」&br()大澤「&bold(){唯一『神の子』を明言しているヨハネ福音書は}…」|例えば、マルコ福音書では1章1、11節、9章7節、14章61-62節、15章39節という決定的な個所でイエスが(しかも、場合によっては神自身によって)「神の子」であると明言されているし、マタイ福音書では16章16節、ルカ福音書では1章35節という決定的な個所でイエスが神の子であると語られている。|[[新共同訳聖書「神の子」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%90]]|
|p156|大澤「共観福音書では&bold(){ごくわずかしか}『神の子』という語は用いられていませんし、それらにしても、他人が&bold(){それほど深い思想的な意味も込めずに、思わず}イエスをそう呼ぶ場面で出てくるだけです(百人隊長が十字架のイエスをそう呼んだり、悪魔がイエスを挑発したりする場面)。」|新共同訳聖書でイエスが「神の子」と語られている個所を検索すれば、マタイによる福音書で9カ所、マルコによる福音書で4カ所、ルカによる福音書で6か所であるが、これが「ごくわずか」と言えるのだろうか。何故なら、「『神の子』の概念を明言している」と橋爪氏が語るヨハネ福音書では8カ所だからである。従って、マルコ福音書が少ない、とは単純な検索結果としては言えるが、「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていません」とは言えない。&br() &br()なお、上でも触れたが、共観福音書では神がイエスを「愛する子」「わたしの子」と言っている場面が記されており(マルコ1:11、9:7、マタイ3:17、17:5、ルカ3:22、9:35)、神がイエスをそのように呼んだ箇所まで含めれば、イエスを「神の子」と呼ぶ個所はさらに増える。従って、「共観福音書ではごくわずかしか『神の子』という語は用いられていません」とは言えない、と考えるのが適当である。&br() &br()百人隊長や悪魔がイエスを神の子と呼ぶのも深い意味があるとキリスト教では考えられているが、同箇所に深い思想的な意味もない、と大澤氏が述べた根拠は不明。&br() &br()特にマタイによる福音書16:16におけるシモン・ペテロがイエスを「神の子」とした箇所は、直後の箇所と合わせて、ペテロに連なるローマ教皇権の根拠としてローマカトリック教会では非常に重要視されており、同箇所につき教皇権の根拠としての解釈を否定する正教会およびプロテスタントとの間で今も議論になる箇所である。ペテロの「信仰告白」が「他人」による「深い意味も無い」ものとして判断した大澤氏の根拠は不明。&br() &br()なお、マタイによる福音書27章42- 43節では、イエスを十字架につけた側である祭司長、律法学者、長老らが、十字架にかけられたイエスを「今救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから。」と嘲弄しており、イエスが神の子とされていたことは敵対者にも認知されていたことが記されている。|[[新共同訳聖書「神の子」検索結果>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%90]]&br() &br()[[The Church Fathers' Interpretation of the Rock of Matthew 16:18 by William Webster>http://www.the-highway.com/Matt16.18_Webster.html]]&br() &br()[[EKK新約聖書註解>http://www.kyobunkwan.co.jp/Publish/cat103.htm]]|
|p157|大澤「弟子たちに『お前たちは俺のことをどう思うか』と尋ねたら、ペテロが『あなたはメシア、生ける神の子』と答える。これに対してイエスは、&bold(){否定も肯定もしていない}んです。強いて言えば&bold(){消極的な肯定}という感じで、『そのことはお前の胸にしまっておけ」と告げている。…」橋爪「はい。それはマタイ福音書(16章16節)に書いてありますね」|マタイ福音書16章17節でイエスはペテロの答えに対して、「シモン・バルヨナ、あなたは&bold(){幸いだ}。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(Μακάριος εἶ, Σίμων Βαριωνᾶ, ὅτι σὰρξ καὶ αἷμα οὐκ ἀπεκάλυψέ σοι, ἀλλ’ ὁ πατήρ μου ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς.)と賞賛している。この「&bold(){幸いだ}」に当たるギリシア語(Μακάριος)の意味は全くの賞賛であることは、マタイ福音書5章3節以下「真福九端(八端)」に繰り返し登場する「幸いである」と同じ単語であることにも示されている。イエスがペテロの答えに「否定も肯定もしていない」のは、挙げられているマタイ福音書ではなく、マルコ福音書である(8章29-30節、ただしこちらには「神の子」は言われていない)。|[[Matthew 16:17 Greek Texts and Analysis>http://biblos.com/matthew/16-17.htm]] (ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 16:17 Greek NT: Greek Orthodox Churchからギリシャ語部分は引用)|
|p158|「メシアはまず、&bold(){軍事的リーダー、軍司令官}なんです。もっと端的に言えば、どこかの国の王が、解放者としてやって来る」|確かに軍事的リーダーであるメシアもいる。しかし、レビ記4章5、16節等では祭司が「メシア/キリスト」と呼ばれている。そもそも、歴代誌上16章22節に現れる「メシアたち/キリストたち」(ヘブライ語及びギリシア語で複数形!)はイスラエルの民一般を指すと考えられている。また、イエスの同時代のクムラン教団では、王的メシアと並び祭司的メシアも言及されている。従って、「メシアはまず、軍事的リーダー、軍司令官なんです」とは、言えない。メシア/キリストとは神によって選ばれた人物のことであって、その役割が固定しているわけではないし、どこかの国の王だと決まっているわけでもない。|[[死海文書入門講座Ⅴ 和田 幹男 V 死海文書概観 2>http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS05.html#10]]|
|p160|大澤「誰でも知っているように、イエスは…&bold(){三日後に}復活しました」|確かにマルコ福音書ではイエスが「三日の&bold(){後}に」復活すると語られているが(8:31、9:31、10:34)、しかしそのマルコ福音書にしてもイエスが復活したのは三日&bold(){目}である(十字架につけられた金曜日が一日目、土曜日が二日目、復活した日曜日が三日目。なお、マタイとルカはマルコのこの表現をきちんと訂正して「三日目」としている)。この点では橋爪氏が207頁で「三日&bold(){目}に復活する」と語っているのが正しい。|[[聖書に現れる「三日」>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E4%B8%89%E6%97%A5]]|
|p168-9|橋爪氏:(パウロがイエスを「神の子」と考えたことに関連して)イエスは「生まれた最初から」神の子であることが「計画されていた。そうすると、&bold(){処女懐胎}で生まれたりすると、都合がいい」。「&bold(){初めから、神の計画によって生まれた特別な存在}、と考えられる」。|イエスが「処女懐胎で生まれた」とはパウロは全く語っていないのだから、パウロが処女懐胎を知っていたと論証することは不可能である(パウロが処女懐胎を知ったとしたら信じるかどうか、ということとは別問題である点に注意!)。更に、橋爪氏の主張はローマ書1章4節「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(新共同訳)と矛盾している。|[[ロマ書1章(口語訳)>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=1&mode=0]]|
|p170|「イエスが、&bold(){ヤハウェを父と呼んでいたから}、イエスが神の子と考えられるようになったのではないか」|トビト記(前200年頃成立?)13章4節でトビトは神を賛美した祈りの中で「神は私たちの主であり、私たちの父」と述べている。更に、シラ書23章1、4節、知恵の書14章3節などでも神を父と呼んでいる。つまり、神を父と呼んでいたユダヤ人は、イエスだけではない。つまり、「イエスが、ヤハウェを父と呼んでいたから、イエスが神の子と考えられるようになった」わけではない。|[[A Critical and Exegetical Commentary according to St. Matthew>http://archive.org/stream/criticalexegetic26alleuoft#page/44/mode/2up]], p44参照|
|p175|「イエスの一行が食事をしていると、女性が入ってきて、高価な香油を瓶から&bold(){髪}にかけたり」|マルコ福音書14章3節及びマタイ福音書26章7節に従えば、「髪」ではなく「&bold(){頭}」である。「髪にかけた」は、ルカ福音書7章38節及びヨハネ福音書12章1節以下でイエスの足を女性が自分の髪で拭ったことと混同しているためか。しかし、こちらの場合、女性が高価な香油をかけたのはイエスの頭ではなく、足である。|[[マルコ福音書14章3節>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mar&chapter=14&mode=0]]&br()[[マタイ福音書26章7節>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=26&mode=0]]&br()[[ルカ福音書7章38節>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=luk&chapter=7&mode=0]]&br()[[ヨハネ福音書12章3節>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=12&mode=0]]|
|p178|「イエスのいう『神の国』は、これ(注。ユダヤ教的な「神の国」)を裏返したものです。…&bold(){『ヨハネの黙示録』}によると…」|イエスの「神の国」理解を語っているはずなのに、『ヨハネの黙示録』に話が飛んでいるのは、不明。たしかに『ヨハネの黙示録』には、この書物にあることはイエス・キリストによって伝えられたことだ、書かれているが(1章1節等)、橋爪氏は歴史上のイエスの神の国理解を説明していたはずなのだから、ここで『ヨハネの黙示録』を持ち出すのは、おかしい。||
|p176以下|「9キリスト教の終末論」で「神の国」を&bold(){「場所」}とのみ捉えている点について。|「神の国 η βασιλεια του θεου/των ουρανων」は、神の「領土」「土地」を意味するというよりはむしろ、神の「&bold(){支配}」を意味する。大澤氏は神の国が「イメージしにくいです」(179頁)と語っているが、「神の国」が「神の支配」をも意味することを知らなければ、当然であろう。&br()&br()これは「解釈」のレベルではなく、語義レベルの問題。βασιλειαは新約のギリシャ語でも古典ギリシャ語でも「王国」「領土」のほかに「支配」「主権」を示す語彙である。むしろ岩隈は「王たる事」「王位権」「支配」「統治」を第一義とし、ルカ福音1:33、19:12を挙げている。つまり辞書を引けばあっさり氷解する疑問である。|[[Catholic Encyclopedia :Kingdom of God>http://www.newadvent.org/cathen/08646a.htm]]&br()&br()岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』p83, 2006年5月11日&br()&br()"Greek - English Lexicon, Liddell & Scott" p128, 1974|
|p183|橋爪「福音書の中に、一ヵ所だけ呪いの言葉があって、いちじくの樹の話なんですけど、&bold(){エルサレムで}お腹が空いたのでイエスがいちじくの樹のところに行ったら実がなっていなかった。そこで、&bold(){『枯れてしまえ』と言った}。そうしたら、『すぐに枯れた』というのと『しばらくして枯れた』というのと、ふたつのヴァージョンがあるのですが、枯れてしまった。枯れて、&bold(){火にくべられるだろうというわけです}。これはふつう、&bold(){イエスの言葉を聞かないでパリサイ派に従っている人々のたとえだと解釈することになっています}。とにかく呪われたグループがあって、滅びの道に入り、焼かれるということですね、裁きの日に」&br()大澤「もちろん聖書に書いてあることだから、&bold(){いちじく=パリサイ派だと解釈されているんでしょうけれど}」|ここで語られている奇跡物語は、マルコによる福音書11章12-14、20-24節並行マタイによる福音書21章18-22節である。&br()まず、細かいことではあるが、イエスは「枯れてしまえ」とは言っていない。イエスの言葉は、マルコによる福音書では「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、マタイによる福音書では「今から後いつまでも、お前には実がならないように」である(訳はいずれも新共同訳に従った)。更に、場所はエルサレムではなく、ベタニアとエルサレムの途中においてである(マルコ11章12節、マタイ21章18節)。&br()実のならないいちじくが象徴しているのは不信仰な人々でありその中にはパリサイ派も含まれる、と解釈する人はいるだろうが、「いちじく=パリサイ派」と解釈することに&bold(){なっている}わけではない。そもそもマタイによる福音書では、信仰が強ければ不可能と思われることもできるのだ、という話に編集されているので、イエスの言葉を聞かない敵対者を想定する必要はないかもしれない。マルコによる福音書では、サンドイッチ構造から、神殿体制(に関わる人々)が滅びるとは言っているかもしれないが、しかしパリサイ派はここには全く登場しない。祭司長や律法学者が滅びるのだ、と言うのならば、納得できるのであるが、&br()枯れたいちじくは「火にくべられるだろう」とは語られていない。||
|p194-5|大澤「イエスは、&bold(){律法を廃棄}して、それを愛に置き換えた。ただ、律法を単純に否定し、排除したかというより、むしろ、&bold(){愛こそが律法の成就}だということになっています。弁証法でいう『止揚』という感じです」(橋爪氏、反論なし)|イエスが律法を「廃棄」したとは福音書には書かれていない。むしろ、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とイエスは語っている(マタ5章17節)。もしこれをイエスに帰せず、福音書記者の思想とするならば、その根拠を明らかとしなければならない。&br()因みに、愛こそが律法の成就とは、イエスではなくパウロの言葉であろう(『ガラテヤの信徒への手紙』5章14節、『ローマの信徒への手紙』13章8-10節)。|[[マタ5章17節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=mat.new&keyword=%E5%BE%8B%E6%B3%95%E3%82%84%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85%E3%82%92%E5%BB%83%E6%AD%A2&flag_back=1]]&br()[[ガラ5章14節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=gal.new&keyword=%E5%BE%8B%E6%B3%95%E5%85%A8%E4%BD%93%E3%81%AF&flag_back=1]]&br()[[ロマ13章10節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?cmd=search&trans=ni&keyword=%E6%84%9B%E3%81%AF%E5%BE%8B%E6%B3%95%E3%82%92%E5%85%A8%E3%81%86]]|
|p197|「イエスは答えて…『…律法はこの二つに尽きている」と述べた。たくさんあった律法が、&bold(){たった二条になってしまった}」|橋爪氏が念頭においていたのは、マルコ福音書12章29-31節か、それともマタイ福音書22章37-40節か不明であるが、イエスの言葉は前者では「この二つにまさる掟はない」だし、後者では「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」なのだから、「尽きている」とは言っていない。なるほど、これらは新共同訳からの引用だから、橋爪氏の見ている日本語聖書にはそう書いてあるから間違いではない、と言う方がいるかもしれないが、マルコ福音書のギリシャ語もマタイ福音書のギリシャ語もどう考えても「尽きている」とは訳せない。自説のために聖書の文面を変えてはいけない。そもそもどちらの福音書であっても、すべての掟が大切であることが前提であり、その上でどの掟がより重要であるか、根本的であるかが問題となっているのだ。従って、「たった二条になってしまった」わけではない。|[[マルコ福音書12章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mar&chapter=12&mode=0]]&br()[[マルコ福音書12章31節ギリシャ語>http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0155%3Abook%3DMark%3Achapter%3D12%3Averse%3D31]]&br()&br()[[マタイ福音書22章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=22&mode=0]]&br()[[マタイ福音書22章40節>http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0155%3Abook%3DMatthew%3Achapter%3D22%3Averse%3D40]]|
|p198|イエスは「それから、呼びかけに応えるのに、&bold(){割礼やほかの、どんな具体的な行動も必要ないことにした}」|異邦人がイエスをキリストと信じる人々の群れに加わる際に、割礼が不必要であることが決まったのは、50年頃に行われた所謂「使徒会議」(使徒言行録15章1節以下、ガラテヤの信徒への手紙2章1節以下)の決議以降であり、それまでは割礼を必要と考える人々と不必要であると考える人が教会内に混在していた。これは明らかに史的イエスが割礼の不要を語らなかった、あるいは(ユダヤ人の間でのみ活動していために)語る必要がなかったためだと考えられよう。|使徒15章1節以下、ガラ2章1節以下|
|p199|「12 贖罪の論理」で、橋爪氏が贖罪死を同害報復説の観点から説明している点について。|誰が同害報復説を唱えているのか不明。そもそもマタイ福音書5章38-42節でイエスは同害報復という行いを否定しているが、これとイエスの死の同害報復説とをどのように調和させるつもりなのだろうか。|[[マタイ福音書5章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=5&mode=0]]|
* ([[その2に続く>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]])
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2012-10-22T05:19:09+09:00
1350850749
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間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。
2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
キリスト新聞2011年10月22日2面に掲載された橋爪大三郎氏のインタビュー記事を引用しておく。
--------------------------------------------------
――インターネット上では、事実誤認という声もあるが。
&font(red){橋爪:この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。}
――では、どういうものとして捉えてほしいのですか。
橋爪:漢字に楷書・行書・草書があるでしょ。この本は言わば草書体なんです。草書体の字に向かって、画数が違うとか点が省略されているとか言ってもしょうがない。そういうものなんだから。じゃあ、草書体はいい加減か?私はこの本はこの本で実に精密にできていると思う。数学みたいに精密なものなの。ただその表現が漫才みたいなの。/飲み屋で酔っ払って話している二人組みたいじゃないかって言っている人がいた。そういうふうに仕上げてあります。だからそう楽しんでくれていいんだけど、でも言っていることは、よそに書いていないことで、しかも精密なことが書いてある。/論文にしたければ、どの1ページから、論文が何本も書けます。そういうふうに思う人は、クロウトのひと、もの書きの人です。そういう人には概して評判がよろしい。
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つまり橋爪氏は「間違いを少し書いてしまった」のではなく、「ハナから間違いを回避しようとしていない」。自分の生み出す本に品質保証をしないと宣言しているも同然。
-&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}
-&bold(){[[「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html]]} (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^)
* 歴史に関する事実誤認の記述を断りなく訂正
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|
|p41|「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」→「初代のサウル王は、北側にもつながりのあるベニヤミン族の出身だった」(6刷で変更)|サウル王の属するベニヤミン族は北側ではなく南側に属する。そのために差し替えたのだろうが、どちらにせよ間違い。逆に、訂正のせいでより意味不明になっている|
|p93|「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の&bold(){『レビ記}』に載っています」→『レビ記』を&bold(){『出エジプト記』}に訂正。なお、この訂正は正しい。|どの刷で訂正したか不明であるが、版を改めないにもかかわらず内容を訂正するのは、不適切であると思われる。講談社(及び日本の出版社)はこのようなことを一般的に行なっているのだろうか?|
* 単純な事実に関する間違い
- 目次
-1 [[歴史>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]
-2 教会生活
-3 教会論
-4 聖書
[[1 総論>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]
[[2 旧約>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]
[[3 新約その1>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] ・ [[新約その2>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]
-5 [[神学>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]
-6 東方教会(正教会・非カルケドン派)
-7 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント)
-8 科学
-9 キリスト教音楽
-10 キリスト教美術
-11 哲学
-12 言語
-13 [[キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教・神道・イスラムについての無理解)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]
** 歴史
&bold(){当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]を参照}
** 教会生活
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p67|「キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから」|根拠不明である。確かにイエスは隠れて祈るように命じたが(マタ6:5以下)、しかし右の動画に映っている人びとは祈っていないとでも言うのだろうか。&br()&br()これでは、正教会の奉神礼、西方教会の典礼・礼拝、それをベースに発展した教会音楽が全く説明出来なくなる。それとも橋爪氏は「教会音楽は祈りでは無い」とでも認識しているのだろうか。&br()&br()&bold(){橋爪氏がどう「祈り」「教会音楽」を理解しようと自由であるが、少なくともキリスト教において一般的理解ではない独自説を「キリスト教では云々」として流布するのは問題あろう。}|(正教会)[[Патриарх совершил литургию в Рождественск. cочельник>http://www.youtube.com/watch?v=rsf3YWDkcAU&feature=relmfu]]&br()&br()(カトリック教会)[[主の祈り(カトリック南山教会)>http://www.youtube.com/watch?v=ubD4e_-hmG4]]&br()&br()(プロテスタント)[[Behold the Glories of the Lamb.mp4 >http://www.youtube.com/watch?v=cDbUjjcmSUI]]&br()&br()(非カルケドン派)[[قداس عيد الفصح في كاتدرائية مار افرام حلب-سورياSyriac Easter in aleppo>http://www.youtube.com/watch?v=DbUavruSY6A&feature=related]]|
|p67|大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」|まず単純に過ぎる。少なくとも「&bold(){かくあらんことを(そうありますように)}」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、&bold(){「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」}となるのである)&br()「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。 &br() なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。|[[Аминь(Энциклопедический Словарь Ф.А.Брокгауза и И.А.Ефрона)>http://www.vehi.net/brokgauz/all/003/3182.shtml]]&br() &br() [[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Amen>http://www.newadvent.org/cathen/01407b.htm]]|
|p237|「聖餐式ですけれど、最初はほんとうに食事をしていたらしい。でもそれをすると、みなお腹を空かせてやってきて、教会の財政が大変なので、食事はやめになり、象徴的なパンとブドウ酒の儀式になった」|・「ほんとうに食事をしていた」とは、恐らく、『コリントの信徒への手紙一』11章17節以下などを根拠としているのだろう。なるほど、パウロの時代には聖餐と愛餐の区別が曖昧であり、実際の食事(愛餐)と聖餐式が一続きで行われたと考えられる。更に、使徒教父文書の一つ『ディダケー』(100年頃)の9-10章の記述からも、愛餐と聖餐は一続きで行われていたと考えられる(10章1節「"満腹"した後」)。ギリシア教父・殉教者ユスティノスの『護教論』(150年頃)にも食事としての描写がある。この点で、「最初はほんとうに食事をしていた」とは、曖昧な表現であるにせよ、許容出来る表現であるかもしれない。しかし、「ほんとうの食事」が「象徴的な…儀式になった」という主張の根拠は不明。聖餐は、最初期に実際にどのように行われていたかは不明であるが(実際の食事の形をとるにせよ、それと連続して行われているにせよ、独立したものであるにせよ)、イエスによって命じられた、つまりそもそもの最初から象徴的な儀式である(1コリント11章23節以下及びマルコ福音書13章22節以下)。&br() &br() ・聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)はキリスト教にとって最も重要な儀式のひとつ。ただの食事ではない。キリストの受難と贖罪を記念する儀式であり、聖書にも記された儀式である。「食事の」記念ではない。もしかすると橋爪氏は愛餐(アガペーの食事)と聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)を同一視しているのかもしれない(そのような説があるなら、それを説明すべきである)。なお、聖餐論には世界史で習うレベルの話だけでも、主に実体変化・共在説・霊的臨在説・象徴説がある。「象徴」をそのような意味で定義するかによるが、ツヴィングリの時代まで、パンとぶどう酒を「象徴」のみと限定し、アナムネーシス(想起)に限定する考えはなかった。それまでは実体変化とする考えが主流だった。橋爪氏の所属するルーテル教会は象徴説を取らない。共在説である。そのために、ルターは多くの論争を戦った。プロテスタント内部に分裂も起こった。そういったことも知らないのだろうか? |[[小林信雄「『ディダケー』における聖餐の祈り」『神學研究』 26, 109-144頁 CiNii PDF - オープンアクセス >http://ci.nii.ac.jp/naid/110001043740]]&br() &br()[[小林信雄「マルコ福音書における供食物語 : 聖餐の起源との関わりにおいて 」『神學研究』 28, 19-55頁 CiNii PDF - オープンアクセス >http://ci.nii.ac.jp/naid/110000188734]] &br()[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Eucharist >http://www.newadvent.org/cathen/05572c.htm]]&br() [[日本福音ルーテル教会 ルーテル教会の信仰 >http://www.jelc.or.jp/belief/]] &br() [[ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会 >http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm]] &br()[[正教会とは 日本正教会 >http://www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html]] &br() Holy Mystery: A United Methodist Understanding of Holy Communion. (Cayle Carlton Fenton, 2006. p. 33)|
|p294|「(プロテスタントの教会に)カトリック教会の信徒がやってきても、聖餐にあずかれます。&bold(){逆もそうだと思う。}」|カトリックではプロテスタント信徒に対して聖体拝領を許可しない。それどころかプロテスタント内でも「他教派の人間に聖餐を許すかどうか」については議論が分かれるのが現状(特にバプテストにクローズドの傾向が顕著)。&br() &br()1998年、当時の&bold(){アメリカ大統領だったビル・クリントン(プロテスタント・バプテスト派)が南アフリカ訪問中にカトリック教会を訪れたとき、カトリックの聖体にあずかったため、論争となった}こともある。Bil Clinton + Catholic + Communionなどのキーワードでネット検索すれば、当時の記事や論争などが大量にヒットします。「逆もそうだと思う」などと、軽々しく発言できる問題ではない。基本的な事実誤認。これで「世界がわかる」とは言えない。&bold(){逆に世界を誤解します。} | [[Why Close Communion And Not Open Communion>http://elbourne.org/baptist/whybaptist/11_closecommunion.html]](By O. L. Hailey, D. D. Editor Arkansas Baptist Little Rock, Arkansas ) &br() &br()栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治――ワシントンからオバマまで』キリスト新聞社 2009年 p.216-217 &br() &br() [[New York Times "President Took Communion -- And Criticism" By JAMES BENNET Published: April 07, 1998 >http://www.nytimes.com/1998/04/07/us/president-took-communion-and-criticism.html]]|
** 教会論
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p291|「カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠をもたない。ゆえに存在すべきでない。教会堂もなくてよい。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です」|「司祭や神父」は橋爪氏がこの本の他の箇所や、他の著書でも犯す間違い。「司祭」(職名)、「神父」(呼称)。これは別の例で言えば「教諭と先生」「代表取締役と社長」というようなもの。つまり橋爪氏は「司祭」が何か、「神父」が何か、の辞書的意味すら把握していない。&br()&br()また、プロテスタントも礼典・教職、教会堂を持っているが、これらも聖書的根拠がプロテスタントによって示されている。&br()&br()なお、「(カトリックの聖職者制度は)聖書に根拠をもたない」というのは、あくまでプロテスタントがカトリック教会を批判する際に言うものであるが、中立的観点からすれば、カトリック教会も教職制について根拠となる聖書箇所を挙げていることには言及しても良いのではないか(Ⅰペテロ 2:2、Ⅰテモテ 5:17ほか)。プロテスタントの一方的主張だけを「入門書」で書くのは、入門書としての役割を果たしているとは言えない。正教会にも聖職者制度があるが、これも同様に根拠として挙げられる聖書箇所がある(ピリピ 1:1。Ⅰテモテ 3:1 - 7ほか)。&br()&br()概して他の箇所にも言えることだが、当該教派がどういう主張をしているか真摯に調べるという姿勢が決定的に橋爪氏には欠けている。|[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priesthood>http://www.newadvent.org/cathen/12409a.htm]]&br() [[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priest>http://www.newadvent.org/cathen/12406a.htm]] &br() [[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Hierarchy of the Early Church>http://www.newadvent.org/cathen/07326a.htm]] &br() [[Ecclesiastical Buildings>http://www.newadvent.org/cathen/03041a.htm]] &br() "The Orthodox Study Bible: Ancient Christianity Speaks to Today's World" p1612, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) &br() [[八木谷涼子 東方正教会&ローマ・カトリック 聖職者対照表 >http://yagitani.jpn.cx/kurihon/kurihon04.htm]] &br() [[八木谷涼子 教派いろいろ対照表 (『知って役立つキリスト教大研究』の巻末附録・9教派対照表 (p.362-381)の増補版)>http://yagitani.jpn.cx/kurihon/kurihon18.htm]]|
** 聖書
&bold(){当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]を参照}
** 神学
&bold(){当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]を参照}
** 東方教会(正教会・非カルケドン派)
橋爪氏も大澤氏も、&bold(){&color(red){正教については「皇帝教皇主義」と「言語による分裂」しか言及しておらず、以下指摘の通り、大枠でも「誤りしか書いて居ない」。0点である。}}
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p256|「教会で何語を使うか。東方教会はギリシア語を」|4世紀のシリアの聖エフレム(東西両教会で聖人)、7世紀のシリアのイサアク(正教会で聖人)はシリア語で著述していた。&bold(){「東方=ギリシア語のみ」ではない。}|[[St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)>http://www.soc-wus.org/ourchurch/St.%20Ephrem%20the%20syrian.htm]](シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)&br()&br()[[Oriental Fathers: Syriac Literature>http://www.tertullian.org/rpearse/oriental/syriac.htm]]|
|p256, p261|橋爪氏「&bold(){東方教会は、ヴェーバーのいう皇帝教皇主義}、すなわち政治的リーダーと教会のトップとが一致する体制をとったので」&br()大澤氏「ビザンツ帝国では、先ほど(橋爪氏が)おっしゃっていたように、教皇がすなわち皇帝であって」|皇帝と総主教は非兼任。そもそもビザンツに教皇は居ないし、「教皇不在⇒皇帝が兼任」という理解をしているのだとしたら、ただ知識と理解の不足。そもそも東方教会に「イエス・キリストに代わって一人が束ねて教導する教会」という教会論が無い。&br()&br()教会が皇帝に抵抗したり阻止したりしたケースも歴史上複数あり、「『皇帝教皇主義』説は、西欧からの偏見」で片付けられるのが現代ビザンチン研究者の間での常識。世俗領域の、&bold(){非専門家向け・一般向けの世界史書籍(『山川世界史小辞典』p230, 2007)ですら、「(ビザンツの)皇帝教皇主義」は「不正確な説」扱い}になっている。&br()&br()そもそも東方教会に言及するのに、正教会のみならず現代ビザンツ学界までをも完全に無視して、なぜ事欠いてヴェーバーなのか。| 久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』76頁 - 77頁 &br()&br()『山川世界史小辞典』p230, 2007|
|p257|「&bold(){ロシア語}を使うロシア正教会、&bold(){セルビア語}を使うセルビア正教会」|&bold(){各独立正教会が成立する過程の文脈で語られているが、成立時の奉神礼用語はいずれも教会スラヴ語}。セルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀。今でもロシア正教会では教会スラヴ語が奉神礼で使われている。|[[Church Slavonic>http://www.infoplease.com/ce6/society/A0812207.html]] (The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th) &br()[[Reform of liturgical language in Russia>http://www.spc.rs/eng/reform_liturgical_language_russia]] (Serbian Orthodox Church, Official web site)|
|p257で橋爪氏が、p268で大澤氏が|「総主教座の&bold(){分裂}」の&bold(){要因を「使用言語」}としている|そもそも「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」を普通「分裂」とは言わない。&bold(){正教会における独立正教会・自治正教会といった教会組織の関係には、「母教会」「子教会」という解り易い表現がある。子が母から自立することを「家族関係の分裂」とは言わない。なぜ「解り易い」表現を使わずに、わざわざ誤った記述で解り難くしているのか不明。}&br() &br()また(「分裂」の語彙を使わなかったとしても)言語の違いを「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」の要因とするのも根拠不明。&br()ブルガリア正教会もロシア正教会も教会スラヴ語を今でも使っているが、使用言語が同じでも全く別の組織を構成している。&br()上述の通りセルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀以降。セルビア総主教座は(途中廃止された時期もあったが)最初のものは14世紀に成立していてむしろ順序が逆。&br()独立正教会たるキプロス正教会は5世紀に独立しているが、ギリシャ語を今日まで使い続けている。&br() &br()「使用言語の違い→総主教座の分裂」は当たらない。&bold(){本書全体に共通する特徴だが、ここでも間違いだらけの知識から間違いだらけの結論が導き出されている。}&br() &br()|[[Old Church Slavonic language -- Britannica Online Encyclopedia>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/426841/Old-Church-Slavonic-language]] &br() &br()[[THE SERBIAN ORTHODOX CHURCH - A SHORT HISTORY>http://www.sv-luka.org/articles/sochistory.htm]] &br() &br() [[(Vladimir Vukašinović) Confrontation of Liturgical Theologies in Translations of Holy Liturgies into Serbian Language in the 20th Century>http://www.teof.uni-lj.si/uploads/File/BV/BV-70-1-Vukasinovic.pdf]](PDF) &br() &br() [[知多半島の正教会の歴史>http://www.orthodox-jp.com/westjapan/handa/Chita.pen.html]]&br() &br() [[石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂>http://www.orthodoxjapan.jp/annai/h-ishinomeki.html]]|
|p281, p282|「理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない」「理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。」|理性(νους)が邪悪な想いと結びついた時には理性は神との交わり"παρρησία"を失うと指摘した表信者(証聖者)聖マクシモス(東西両教会で聖人)を完全に無視(理性が悪に傾く可能性をマクシモスは認識している)。&br()東西両教会についての違いは「皇帝教皇主義」と「使用言語」だ、くらいの認識しか橋爪氏にも大澤氏にもないから、そもそも理性についての認識で東西の間に差があるという教理関係の違いに一切踏み込めない。&br()西方はラテン語だが東方はギリシャ語だ(これもシリア語を考慮していない間違い)と色々論じているのに、語彙に含まれる概念差が神学の見解に反映されている蓋然性について全く考慮していない。 &br()※ギリシャ語の"νους"(ヌース)は「心」「精神」「理性」と訳され多義的であり、ラテン語の"ratio"と一対一対応するものではない。ラテン語の"ratio"にはギリシャ語の"λογος"が対応するとする場合もある。いずれにせよ橋爪氏が「"νους"は考慮に入れず、あくまで"ratio"のみを考慮に入れた」のだとしたら、「西方教会では」もしくは「ラテン語圏では」の但し書きが必須であろう。|『哲学事典』p1074, p1462 - 1463, 1984 平凡社 &br()加藤信朗『ギリシア哲学史』p18 - p19, 東京大学出版会 2001 &br()『中世思想原典集成 (3)』p550, p556 上智大学中世思想研究所|
** 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント)
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p253|大澤「日本人がキリスト教についてイメージするときに、どちらかというと中心にあるのは、カトリックですね。」|こういうことを言う割には、聖餐論も聖職者制度も含めてほぼ一切ローマカトリックの考え方は紹介されず、「煉獄」「免罪符」を巡っても完全な誤りを述べている(293頁)。大澤氏も橋爪氏もカトリックについて真剣に調べた形跡が無い。||
|p292|「カトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正当な解釈でもない、根拠のあいまいな教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や&bold(){告解や七つの秘蹟}などを行ってきた。それらを、プロテスタントは認めません。」|まず単純に、&bold(){告解(ゆるしの秘跡)は、七つの秘蹟の一つ(告解の他に七つあるのではない)}。橋爪氏は用語一つ、辞典レベルの単純な語義すら確認していない。&br()&br()そもそもこの個所の前後は、宗教改革の文脈で述べられているとはいえ、聖人崇拝(そもそもこの用語も間違い。後述)・煉獄・免罪符の販売・告解・七つの秘蹟につき、「聖書に書かれていない」「公会議の正当な解釈でもない」「根拠のあいまいな教会の伝承」と断言するのは、あまりに中立的な観点を無視し切っているとの誹りは免れまい。せめて&bold(){「 - カトリックでは聖書にも根拠があるとし、公会議で教理の確認をしていますが - 」「プロテスタントの視点から言えば」といった但し書きが、仮にも学者の書くものであれば必須であろう。}&br()&br()また、「崇拝」と「崇敬」に繊細な使い分けをカトリック教会が行い、少なくともカトリック教会自身は「聖人崇拝」はしておらず「聖人崇敬」をしていると自己規定していることは、カトリックに批判的なプロテスタントですらも、認識していることである。「カトリックは聖人崇拝をしている」というのは、プロテスタントからカトリックを批判する際の言い方であって、カトリック自身はあくまで聖人を「崇敬」していると考える(「これも細かい間違い」ではない、カトリックとプロテスタントとの間での重要な論点となってきたタームである)。&br()&br()さらに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のうち、二つ(洗礼・聖餐)は、(理解が違うとはいえ)礼典(サクラメント)としてプロテスタントも認めているのだが、この文章ではサクラメントの考え方すらプロテスタント全てに存在しないかのように誤解を招きかねない。なお&bold(){橋爪氏の所属教派であるルター派も、二つ(洗礼・聖餐)は、礼典(サクラメント)として認めている。}&br()&br()このように、橋爪氏はカトリック教会の基本的な事柄を抑えていないばかりか、プロテスタントからの(それも著しく通俗的で誤りも含んだ)カトリック批判のみを紹介しており、学者が書く入門書としては許されない&bold(){偏向}も際立っている。|[[七つの秘蹟 — カトリック鹿児島司教区>http://sdemo.net/cdk/church/4e033064306e79d88e5f]]&br()&br()[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Sacraments>http://www.newadvent.org/cathen/13295a.htm]]&br()&br()[[尊者・福者・聖人>http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/sonsha.htm]](カトリック中央協議会)&br()&br()[[What are the sacraments? - Evangelical Lutheran Church in America>http://www.elca.org/Growing-In-Faith/Worship/Learning-Center/FAQs/Sacraments.aspx]]|
|p293|「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、(中略)&bold(){煉獄とか免罪符とかの教義は(カトリック教会から)すべてなくなった}」|煉獄の教えは現代カトリック教会にも健在。&br()免罪符についてはそもそも「贖宥状」「免償符」という用語を使わない時点で、カトリック教会における位置付けをおそらく橋爪氏は把握していないと思われる。「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」もの。&br()&br()「免償」の教えも現代カトリック教会に健在。&br()&br()ルターはちゃんと意味を解っていた上で、その意味の上で批判したのだが、カトリック教会はその批判に同意しなかった。他方、正教会には「赦罪の後の償い」の考え方が元来、無い。&br()&br()つまり免償、煉獄を認めるか認めないかは、現代においてもなお「プロテスタント、カトリック、正教」の違いの代表例の一つなのだが、その「違いの代表例」が橋爪氏の中では宗教改革の時代に消滅しているらしい。&br()&bold(){橋爪氏が「『免償符』は今のカトリックには無い」という意味にも取れる言葉で言ったのならまだ良かったのだが、ハッキリと「煉獄とか免罪符とかの&bold(){教義}は」と言ってしまっているので、単純に誤りある記述となってしまった。}&br()なお、14刷では「煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど」が「免罪符の販売などもやめることにしたんだけど」と、訂正されていることも付言しておこう。|[[教皇ベネディクト十六世の254回目の一般謁見演説>http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message580.htm]] &br() &br() [[第29回 「免罪符」のウソ>http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/29.htm]]([[尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」中学3年生のための哲学入門>http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/00.htm]]より) &br() &br() [[正教会とは:日本正教会 The Orthodox Church in Japan>http://www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html]]|
** 科学
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p309-315|大澤「自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。ぼくらが、今日、『自然科学』として理解しているような真理のシステムは、簡単にいえば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった『科学革命』以降のものだと考えてよいと思います。…そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者…は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした」&br()橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか」&br()大澤「同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」&br()橋爪「教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学的な考え方)を真剣に発展させて行きやすい」|「科学革命以降の知」が現代の自然科学的な考え方と同じであることが指摘され(310頁)、「&bold(){プロテスタントから}、自然科学的なものの考え方が出てきました」(313頁)と語られているが、その&bold(){「科学革命」がまさにローマ・カトリックの律修司祭であるコペルニクスから始まった}点で事実と異なっている(尤も、彼らが語る「科学革命」でどの研究者の定義する「科学革命」を指しているのか不明であるが。ここではバターフィールドの語る意味での科学革命を彼らが想定していると考え反論している)。&br() (データを掲載していないのだから、根拠不明であるが)科学者にプロテスタントが多いとの主張が仮に正しいとしても、ローマ・カトリックにも多くの優れた科学者がいて、科学の発展に貢献したことを橋爪氏も大澤氏も無視してしまっているのではないか。なるほど、本書は新書であるから単純化は避けられないが、「科学革命」の主要な担い手であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4人の内、2人、つまりコペルニクスとガリレイ(橋爪氏は後者を「科学革命の担い手だったと言ってよいと思います」と評価している)がローマ・カトリック信徒であったことには言及すべきであったと思われる。&br() 更に、16世紀から17世紀における科学革命の担い手は「たいていプロテスタント」だった、とか、「カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学や数学)を真剣に発展させて行きやすい」、との主張は、何を根拠にして言っているのか不明である。たとえば、16-17世紀の科学者でありローマ・カトリックに属するキリスト者である、コペルニクスやガリレイ、マラン・メルセンヌ、デカルト、ピエール・ガッサンディ、パスカル、ニコラウス・ステノらによる科学に対する多大な貢献を考えてみよ。||
** キリスト教音楽
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p320|「教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それでグレゴリオ聖歌とかができたんですけど・・・」 |問題外の記述。ミサ・礼典の意味はおろか、宗教音楽の歴史に対してまったく無知をさらけだしている。ユダヤ教の詩篇から歌っていたことは常識である。グレゴリオ聖歌の成立に関しても誤解以前の問題である|[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Gregorian Chant >http://www.newadvent.org/cathen/06779a.htm]]|
|p321|「プロテスタントは、宗教音楽を簡素にし」|橋爪氏は&bold(){ルター派の音楽家であるバッハ}の、たとえばマタイ受難曲(これは聖金曜日の晩課のために書かれたものである!)を聞いたことが無いのだろうか。&br()&br()「簡素にし」という表現で何を意味しているのか不明であるが、プロテスタントが宗教音楽を「飾り付けがなく、質素なものとした」という意味で語っているのであれば、特にルター派が音楽に与えた影響を捉えきれていない。&br()「この世紀(注。16世紀)後半になると、コラール編曲はさらに充実したものとなり、とくにイタリアの技法を同化したハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトリウス(一五七一ころ-一六二一)らは大規模な器楽伴奏つきコラールを作曲している。偏狭なカルヴァン派とは対比的に、ルター派の音楽に対する開かれた態度は、この後のドイツ音楽の発展にはかりしれない好ましい影響を与えることになり、次代のハインリヒ・シュッツやヨハン・セバスティアン・バッハらのすぐれた宗教音楽作品を生み出す土壌を用意することとなった」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2011年第2刷、195頁)|[[マタイ受難曲>http://www.youtube.com/watch?v=hcIoZ4Gu5Mc]]&br()&br()[[皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』>http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%9A%86%E5%B7%9D-%E9%81%94%E5%A4%AB/dp/4062919370]]|
** キリスト教美術
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p321-322|「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」「プロテスタントの画家は仕方ないから静物画を描いたり、風景画を描いたりした」「絵画で風景画や風俗画,静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃」|まず「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」というのは中世初期のカトリック教会によるゲルマン人布教限定の説明。また、この説明では肖像画と宗教画を混同しており、プロテスタントは肖像画すら描けないことになる。また、静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃、とあるが逆である。西洋絵画のジャンルヒエラルキーが構築されたのは17世紀のフランス・アカデミーとするのが一般的。また,風景画というジャンルに至ってはそもそも誕生したのが16世紀以降で,ルネサンスの頃は宗教画との区別が存在していない。また、「宗教画」というカテゴリは当時なく、神話画など他の最高位に置かれたものを含めて「歴史画」である。また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメール(注。フェルメールは結婚を機会にカトリックとなったと主張する研究者もいる。[[Johannes Vermeer’s influence and inspiration>http://vermeer0708.wordpress.com/johannes-vermeer%E2%80%99s-%E2%80%9Cthe-milkmaid%E2%80%9D-an-article-by-daniel-vergara/]]や[[essentialvermeer.com>http://www.essentialvermeer.com/vermeer's_life.html]]参照)など無数に存在する。|[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Ecclesiastical Art >http://www.newadvent.org/cathen/05248a.htm]]&br() &br() [[静物画:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape>http://artscape.jp/dictionary/modern/1198424_1637.html]]|
** 哲学
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p281|「&bold(){理性は}、人間の精神のうち神と同型である部分、具体的には、&bold(){数学・論理学のこと}なんです」|典拠不明の珍説。『哲学事典』(p1462, 1984 平凡社)によれば、理性とは「&bold(){一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力}をいう」。&br()&br()哲学事典を引かずとも、[[大辞泉>http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%90%86%E6%80%A7&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=19252500]]に、一般的な語義、カント哲学における語義、ヘーゲル哲学における語義に至るまでが簡潔にまとめられて書かれている。&bold(){橋爪氏による独自珍説を読むよりも、一般向けの辞典を読んだ方がはるかに無難}であることが示されている。&br()&br()カトリック教会においても理性につき「数学・論理学のこと」といった語義は与えていない。スコラ哲学においては理性の働きはintellectusとratioとに分類され、intellectusはギリシア語のノエシスもしくはヌース(νους)の意味に、ratioは論証的な&bold(){認識}という意味で用いられた。&br()&br()※正教会においては理性について西方教会とは別の捉え方がされてきたことについては別項「東方教会」節において詳述してある。|[[大辞泉り‐せい【理性】>http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%90%86%E6%80%A7&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=19252500]]&br()&br()『哲学事典』p1462, 1984 平凡社&br()&br()[[REASON (Lat. ratio, through French raison) >http://encyclopedia.jrank.org/RAY_RHU/REASON_Lat_ratio_through_French.html]](Originally appearing in Volume V22, Page 947 of the 1911 Encyclopedia Britannica)&br()&br()[[CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Reason>http://www.newadvent.org/cathen/12673b.htm]]|
** 言語
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p234-5|「イエスと十二人の弟子たちはヘブライ語(ないしは、昔の説だと、&bold(){ヘブライ語の方言であるアラム語})を話していた」|イエスらがアラム語を話していた、というのは別に「昔の説」ではなく、現代でも多くの研究者が主張していることは、細かい指摘であるから置いておくにせよ、アラム語が「ヘブライ語の方言」であるとは誤り。ヘブライ語もアラム語も北西セム語派に属しているが、しかし前者は北西セム語派のカナン語群に、後者は北西セム語派のアラム語群に属する。従って、親戚関係にあるが、方言とは言えない。|左近義慈『ヒブル語入門』(新装版)教文館、2002年、p.2|
** キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、イスラームについての無理解)
&bold(){当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]を参照}
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2012-10-11T20:02:13+09:00
1349953333
-
間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇その2)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html
当ページでは、&bold(){橋爪大三郎}と&bold(){大澤真幸}による『&bold(){ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、&bold(){&font(green){聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤り}}を扱う。&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}が&bold(){容量オーバーになった}ため、聖書篇を分割して作成。
2012年7月18日現在、&bold(){&color(red){130個以上の誤りが挙げられている}}が、まだ未完成。なおこの誤りの数は&bold(){&color(red){明らかな誤りのみをカウントしたもの}}であり、&bold(){[[疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/15.html]]}に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。
※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。
-間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。&bold(){「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。}
-理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。&bold(){真面目な文系研究者や読者に失礼。}
-関連する研究をしている人々の&bold(){努力と業績を一切無視して講釈}するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。
-&bold(){&font(red){p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。}}
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。
-&bold(){[[間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html]]}
-&bold(){[[歴史篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/18.html]]}(上記ページが&bold(){&color(red){容量オーバーになった}}ため分割されたもの、以下同様)
-&bold(){[[聖書篇(総合・旧約)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]}
-&bold(){[[聖書篇(新約その1)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]]}
-&bold(){[[神学篇>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html]]}
-&bold(){[[他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/20.html]]}(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?)
* 聖書についての間違い
- 目次
-1 [[総論>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]
-2 [[旧約>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html]]
-3 [[新約その1>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]] [[新約その2>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/23.html]]
** 新約その2 ([[その1はこちら>http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/19.html]])
|&bold(){頁数}|&bold(){誤りのある記述の引用}|&bold(){正しくは}|&bold(){参考文献}|
|p208|「福音とは、&bold(){これを聞いている人は救われるという意味}です」|「福音」とは元来、「良い知らせを持って来た使者に与えられるほうび」あるいは「そのような良い知らせを受けた時、神々にささげる供え物」あるいは「良い知らせそのもの」のことであり、それが所謂キリスト者によって、イエスが伝えたメッセージあるいはイエスに関するメッセージを指すために用いられるようになった。福音を聞いた結果救われる、と考えるキリスト者がいることは事実であるが、福音の意味は「これを聞いている人は救われるという意味」ではない。|[[W・バークレー『新約聖書のギリシア語』滝沢陽一訳、日本キリスト教団出版局、2009年、108頁以下>http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0-%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC/dp/4818407305]]|
|p231|「十二人&bold(){も}直接の弟子がいた」|「十二人&bold(){も}」と言うが、この十二人は数多いるイエスの弟子の中から選ばれたのであって(ルカ福音書6章12節では、はっきりとこう書かれている)、つまりイエスの弟子は十二人だけに限られない、と考えるのが適切であろう。例えば、ルカ福音書10章1節でイエスは十二人の「ほかに七十二人を任命し」とある。その他、十二人以外の弟子が現れる個所は福音書に多数ある。にも拘らず、イエスの弟子が12人だけというのが史実で、弟子が沢山いたという記事が史実を反映していないというならば、証拠を挙げて論じるべきであろう。|参考として、[[ルカ福音書において「弟子」が現れる個所>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=luk.new&keyword=%E5%BC%9F%E5%AD%90&flag_back=1]]|
|p232|「あるとき、パウロは、&bold(){馬に乗って}エルサレムからダマスコに移動する最中、突然、イエス・キリストに『会って』しまう。目が視えなくなって&bold(){馬から転がり落ちた}」|パウロの所謂「回心」(或は「召命」)の物語は、使徒言行録9章1節以下、22章6節以下、26章12節以下に記されているが、「馬に乗って」いたとも、「馬から転がり落ちた」とも書かれていない。&br()尤も、この場面を描く絵画等で馬から落馬しているパウロがしばしば描かれることから、古来よりそのように考えられていた、ということは指摘しておこう。しかし、パウロがダマスコ途上で復活のイエスを見ただろうことはほぼ確かだろうが(ガラ1:16-18参照)、この使徒言行録に収められている形でのパウロの回心/召命物語は、後代の創作である可能性が非常に高い、と一般に考えられているが、それはパウロ自身がこの出来事について詳細に語っていないからである。この点もここで指摘しておきたい。|[[使徒9章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=9&mode=0]]&br()[[使徒22章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=22&mode=0]]&br()[[使徒26章>http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=26&mode=0]]|
|p233|「パウロがなぜ手紙を書いたかというと、布教活動をしている最中に、&bold(){拘禁状態になって}、自由がなくなったんですけど、ローマの市民権を持っていたので、手紙が書けた。で、手紙をたくさん書いた。それがいくつか残っているのです。」|パウロの真正書簡の内、彼が獄中で書いた書簡、所謂「獄中書簡」は、『フィリピの信徒への手紙』と『フィレモンへの手紙』のみである。パウロは拘禁されていない時にも手紙を書いている。|[[サンパウロホームページ>http://www.sanpaolo.or.jp/column/cn33/list/pg796.html]]|
|p234|「まず、&bold(){十二人の弟子の能力があまりに低かった}。ユダは、金銭の管理もまかされているし、ほかの連中よりも学があった。と言うか、&bold(){他の連中は学がなさすぎた}。シモン(ペテロ)がいちおう弟子たちのリーダーということになっているが、&bold(){漁師とか、まあふつうの人びとですね}」|何を根拠にこのように言っているのか、不明である。聖書ではシモン(とその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネ)が漁師であることは語られているが、その「能力」がどの程度であったかは語られていない。またマタイは徴税人であったのだから、金銭の計算には一定程度の職能を有していたと思われる。&br() シモンが漁師であることに言及して「十二人はふつうの人びと」で、だから「能力があまりに低かった」と言う橋爪氏の主張は、&bold(){職業差別}ではないだろうか。|[[教皇ベネディクト十六世の55回目の一般謁見演説>http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message118.htm]]&br()[[教皇ベネディクト十六世の64回目の一般謁見演説>http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message141.htm]]|
|p238|「キリスト教徒は&bold(){扉を閉めてこっそり祈る}。いつ祈るかは&bold(){個人の勝手でわからない}、というふうになっていました」|キリスト教の初期において、迫害を恐れたために扉を閉めてこっそり祈る人々もいただろう。しかし、「いつ祈るか」が「個人の勝手」とは意味不明である。これはキリスト者は個々人が自分の都合に合わせて祈っていた、という意味か。この想定が正しいとするならば、橋爪氏は、キリスト者は扉を閉めてこっそりと隠れて、それぞれの都合に合わせて祈っていたから、祈りの様子はおろか祈っているかどうかも分からない、と言いたいのだろう。しかしこれは誤りである。個人で祈ることももちろんあったが、初期の教会でも現在と同様に、集団での祈りがあったことは、例えばコリントの信徒への手紙一14章1節以下、使徒言行録1章14節に記されているし、祈っていることがキリスト者以外にも伝わることもあったことは、使徒言行録16章25節に記されているからである。なるほど、使徒言行録は史実を語っているとは言えないかもしれない。しかし、使徒言行録はまったくのフィクションではなく、ある程度史実を反映しているとも言えるだろうから、全くの間違いとして退けることもできまい。そもそも、使徒言行録がまったくのフィクションであり史実を反映していない、という見解は少数意見である。使徒言行録が史実に忠実ではない、ということと、史実を反映していない、ということは別問題である。|[[使徒1:14>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=act.new&keyword=%E5%BF%83%E3%82%92%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%A6%E7%86%B1%E5%BF%83%E3%81%AB&flag_back=1]]&br()[[使徒16:25>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=act.new&keyword=%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%B3%9B%E7%BE%8E%E3%81%AE%E6%AD%8C%E3%82%92%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%A5%9E%E3%81%AB%E7%A5%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B&flag_back=1]]|
|p245|「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと、もう&bold(){預言者が現れることはできない}。預言者は、イエス・キリストの出現を預言していたわけで、&bold(){もう用済みだ}」|「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと」のパウロの時代にもまだ預言者が教会にいたことが、そして重視されていたことが『コリントの信徒への手紙一』12章28節以下から明らかである|[[『コリントの信徒への手紙一』に現れる預言者>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=1co.new&keyword=%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85&flag_back=1]]|
|p245-6|「聖霊がルートを変えなさいと教えてくれた。これはパウロの第六感かもしれないし、パウロが関わっていた&bold(){諜報機関}の友人が情報をこっそり教えてくれたのかもしれない。こうしたはたらきがみな、聖霊です」|第六感が聖霊の働き、と言うのであればまだ分かるが、「パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれた」のを聖霊の働き、というのは理解に苦しむ。これは人間の働きであろう。聖霊が「諜報機関の友人」に働きかけて、パウロに教えてくれた、という意味であると言うことか?それでは言葉が足りない。そもそも、パウロが関わっていた諜報機関とは意味不明であり、新約聖書にはそんな機関はどこにも書かれていない。||
|p246|「信徒が集まっているところには、私もいると思いなさい、とイエス・キリストが語っていた。でも、&bold(){イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる}」|根拠不明。橋爪氏が語っているのはマタイ福音書18章20節であるが、ここの前後にもマタイ福音書の全てを見ても、「イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」、とは一言も語られていない。自説に都合の良いように聖書を書き換えてはいけない。|[[マタイ福音書18章20節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=mat.new&keyword=%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%81%AF%E4%B8%89%E4%BA%BA%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E5%90%8D&flag_back=1]]|
|p247|「パウロは…&bold(){復活のイエスとも会っていない}。旅の途中で幻をみただけ」|例えばパウロは『コリントの信徒への手紙一』15章8節で、キリストが自分に現れた、とはっきりと語っている。|[[『コリントの信徒への手紙一』15章8節>http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi?&cmd=search&trans=ni&book=1co.new&keyword=%E6%9C%88%E8%B6%B3%E3%82%89%E3%81%9A%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AB%E3%82%82&flag_back=1]]|
|p343|掲載されている主の祈りの「最終行(編者注。マタイ福音書では6章13節)は&bold(){福音書にない}、付加部分」|福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。そもそも橋爪氏は日本語の主の祈りに続けてKJVのマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏あるいは大澤氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。この橋爪氏あるいは大澤氏の説明を敷衍して考えると、KJVだけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。 |[[KJV版マタイ福音書>http://quod.lib.umich.edu/cgi/k/kjv/kjv-idx?type=DIV1&byte=4380943]]|
* 外部リンク
[[間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき>http://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html]]
[[誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13>http://quawai.com/post/9153548301/2011-7-13-by]]
[[映画瓦版の読書日誌: ふしぎなキリスト教>http://hattori.cocolog-nifty.com/book/2011/06/post-c1c9.html]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter>http://togetter.com/t/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99]]
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter>http://togetter.com/li/388018]] 最新
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter>http://togetter.com/li/150577]](2以降と別のまとめ製作者によるもの)
[[橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter>http://togetter.com/li/270222]](2以降のまとめの始まり)
2012-10-11T10:08:56+09:00
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